必殺にしきあなご突き
作:西田三郎

「第3話」

■たすけて

 翌日の朝、あたしは8時15分に学校の最寄り駅に着くその電車の、前から4両目の中にいた。
 そのことを裕子に知られたりしたら、やっぱりあたしはその場で舌を噛んで死んだだろう

 『ああ、あたしっておかしい?…………ねえ、おかしい?』

 あたしは頭の中で何度も自分に問い続けまがら、すし詰めなこと以外は平和極まりない車内で、ひとり嫌な汗をかいていた。この車輌の中に、万が一、億が一、あたしの心を読める超能力者が居て、あたしがわざわざこの車輌に乗り込んだ理由を見透かされたらどうしよう……そんないかにも処女らしい自意識過剰な思いが頭をよぎる。思い出すとほんとうにバカみたいだが、そもそもあたしがその車輌に居ること自体がバカまるだしなのだ。
 電車が何の問題もなくひとつ駅を通り過ぎていく度に、あたしはますます消え入りたいような、頭を掻きむしって大声で叫びたくなるような、どうしようもない恥ずかしさを感じた。
 
 だいたい、あの裕子が昨日のお弁当の時に話した、くだらない噂の類の話なのだ。
 裕子がいつも語って聞かせる「痴漢体験談」だって、実のところ本当なんだかウソなんだかわからない。まあちょっと電車の中で触られた、くらいのことは本当にあったのかもしれない。でも、それを裕子が面白おかしく、大袈裟に誇張してあたしに話して聞かせてることだって有り得る。多いに有り得る。裕子には前からそんなところがあって、人を面白がらせるために(聞かされるあたしはちっとも面白くともなんとないことが多いのだが)全く意味のない、無害なウソをつくところがあるのだ。
 自分で言うのもなんだがバカ正直なあたしは、いつもそれに乗せられてしまう。
 
 という訳で今、いつも乗る電車とその後のもう一本を見送って、この電車に乗っているというわけだ。
 ああ、ほんとうに、ほんっとうにバカだわ、あたし。
 満員電車の中はどこまでも平和で、いつもと変わらず……その平穏さがあたしを嘲笑っているように思えた。この電車を降りたら真っ直ぐにトイレに駆け込んで、冷たい水で頭でも冷やそう。そして出来るものならこの電車に乗り込んだという記憶自体、自分の中から消し去ってしまおう。
 
 そう思っていた矢先だった。
 
 ちょうどあたしの正面に、あたしに押しつけられるような形で別の学校の制服を着た女子高生が立っていることに気づいた。それまで自分のバカさ加減を自己批判することに精一杯で、彼女のことにはまったく注意を払っていなかったのだが……よく見るとその子は、びっくりするくらい綺麗な子だった。
 信じられないほどきれいな白い肌に、切れ長の目、実に利発そうな眉の形。鼻筋もしっかり通っていて、唇は小さく上品で瑞々しかった。前髪が少し長めのショートカットだったけど、そんな気を遣ってなさそうな髪型がばっちり似合っている。
 いや、ほんとうにごく希だけど、こんなに可愛らしい子が世の中には居るのだ。
 少なくともこれほどまでの可愛くて綺麗な子は、あたしの学校には居ない。
 
 その子の真っ黒な黒目が、じっとあたしの目を覗き込んでいる。
 
 あたしは何だか、目のやり場に困ってしまった。
 いや、あたしにそういう気はまったくないのだが、あんまりにも恥ずかしい理由でわざわざ電車を2本遅らせてきた、この愚かでバカでマヌケな自分を過分に恥じていたせいだろうか。そんな時にこんな美少女に見つめられるというのは、どうしようもなく決まりが悪かった
 あたしはわざと彼女から目を逸らそうとしたが……目を逸らしても3秒後には気づかぬうちに彼女の顔を盗み見ていた。
 
 彼女はなんだか、とても困った顔をしていた。
 きれいな形の眉の根元が、彼女の美しい顔に悩ましげな陰を作っている。
 ちらちらとその表情を盗み見ながら……あたしはその子のそんな表情が醸し出す何とも言えないいかがわしさに惹き付けられていた。そんな気分になったのはそれが初めてだった。こんな綺麗な子と、こんなにも身体を密着させたのも初めてである。胸がどきどきしてきて、あたしの身体からはさらにいやな汗がにじみ出てくる……ああ、この子にあたしの汗が匂わなければいいけど、とあたしはまた自意識過剰などうでもいい事を考えていた。
 
 と、その子の上品そうな唇が、微かに震えているのが見えた。
 
 あたしはなんとなく……世の中の痴漢の気持ちが理解できるような気がした
 裕子をなで回したがる痴漢の気持ちだけはどうしても理解できないが……もしあたしが男で、そして自制心と理性と社会倫理感覚を持ち合わせていなかったとするなら……こんな綺麗な女の子と身体をぴったり身体をくっつけ合わせて、妙な気を起こさずにおれるかどうか、ほんとうに疑問だ。
 
 何というか……その瞬間、あたしは心で勃起していたといってもいい。
 
 その子はますます困った表情を浮かべながら、唇をわなわなと震わせ始めた。

 彼女は真っ直ぐあたしを見つめながら、ゆっくり唇を開いた。
 白くて小さな、綺麗な前歯が見える。まるで小さな花がゆっくりと開いていくようだった。
 その子の口は、開いたかと思うとゆっくりと閉じ、また開いて閉じる。
 その動きの美しさにみとれていたせいで、その子があたしに何かを言おうとしていると気づくのに、しばらく時間が掛かった。

 「え?」あたしは思わず、その子に呼びかけた「……何?」
 その子に耳を近づけて、声を聞こうとする……が、やはり声は聞こえない。
 
 必死で声を出そうとしているが、声が出ない。そんな様子だった。
 と、あたしの頭に昨日裕子から聞かされたバカ話が蘇ってきた。
 
 “それをされると、身体が痺れて指一本動かせなくなって……声も出せなくなるんだって……
 
 まさか。
 
 あたしは注意深く、その子の唇を読んだ。
 
 ””彼女の唇が開く、そして萎れるように窄まり、“”の形になる。次に、吸い付きたくなるような(何言ってんだ、あたし)可愛いピンク色の舌が覗く……“”?………もう一度、彼女の舌がその前歯の上を辿った……“”。
 
 “たすけて
 
 彼女はあたしに、ほかでもないこのあたしにそう言っているのだ。
 

<つづく>

NEXT/BACK

TOP