ハードコアな夜
作:西田三郎

「第5話」

■ふたたび、1週間前

 話が前後して悪いけど、またちょっとその夜から1週間前に話を戻す。
 ちょっとわかりにくくなってきただろうからね。
 
 “奥さん”はおれがあっけに取られていることを全く意に介さず、“行方不明になった女性歯科技工士”事件の顛末を語り続けた。どうでもいい話だと思うだろ?…でもおれはあまり退屈しなかった。一体、その話がおれを今日呼び出した理由にどう関わってくるんだろう?
 なんとなく胸騒ぎがして…おれは“奥さん”の話にのめりこんでいった。
 
 「……それで、その女性が全裸にコート1枚の姿で発見されてから……警察は捜査をはじめました。だって、普通に暮らしている歯科技工士の女性が、突然、昼間拉致されて…そんな姿で見つかったんですから。当然、性的いたずら……なんて生やさしいものではないけど…を目的とした、誘拐・監禁事件として警察が見るのは普通です」
 「でしょうね。ひどい事件だ」おれは身を乗り出していた。
 「……でも、警察が意識を取り戻した女性から事情を聞いていくうちに……なんだか、矛盾してる点曖昧な点がたくさん出てきたんです。確かに女性は発見されたとき、何らかの薬物のせいで意識不明だったんですけども……警察の事情聴衆に応じる女性の証言が、いまひとつ筋が通らないんです」
 「…そりゃ、仕方ないんじゃないですかね。だって、そんな目にあったんだから」
 「……確かに、警察も、はじめのうちはそう思っていたみたいです、でも……やっぱり、女性に話を聞いていくと、後から後から不合理なところが出てきたんです。だいたい、そんな成人女性を真っ昼間から、しかも人通りの多い彼女の仕事場の付近で……いきなり襲って連れ去るなんてことは、なかなかできるものじゃありません。」
 「…はあ」
 おれは、“奥さん”の顔が少し紅潮していることに気づいた。
 そして心なしか…声が上擦っている。
 そして、その色の薄い美しい目も……心なしか潤いが帯びているようにも見える。
 「……長い事情聴衆の末に、その女性はついに、ある男の名前を白状しました。男は、ずっと以前からその女性と秘かに交際していた不倫相手でした。彼女はつまり、行方不明になっている3日間、その男と一緒に居たんです
 「……ふむ。……え、でも“奥さん”、女性は発見されたときには素っ裸でコート一枚で、しかも意識不明だったんでしょ?」
 「……そうです。その女性と男との関係は、ふつうの不倫関係とは少し違っていました。二人は、……その……とてもマニアックな、SMマニアだったんです。………その、女性の方が…って言うんですか?その虐められて悦ぶほうで……男性がその相手のでした。二人は数年前から、人目を忍んで密会を繰り返しては……そのSMプレイをして愉しむことを生き甲斐にしていました。当然、そのことを女性のご主人は知りませんでした。……というか、疑いもしてなかったみたいなんですね」
 「……でも、その……女性は事件の前から、ストーカーみたいな奴につけ回されていたんでしょう?写真や、へんな手紙を送りつけられたり、ゴミ出しのときに襲われたり…」
 「……それらも全部、相手の男の仕業でした。もちろん、女性もそれは判っていました。」
 「…何のためにそんなことを?
 「……たぶん…」そういって“奥さん”は言葉に詰まり、ほんの少し右斜め横を見た「……たぶん、女性のご主人を心配させ、亢奮させるためだと思います
 「え……?亢奮させる?
 「……ええ、多分その女性のご主人は失踪事件の前から……自分の奥さんに対して、いかがわしい感情を抱いている人間がいるということに対して……ものすごく心配し、不安な日々を送っていたでしょう。あたりまえです。自分の愛する人に、危機が迫っているんですからね。……でも、その反面、そのことに対して…すごく亢奮してもいたと思うんです」
 「そう……ですかね?
 「…ええ、たぶん…きっと。奥さんに対していかがわしい感情を抱いている他者が存在するということはつまり、自分の伴侶であるはずの奥さんが、他人の目からも充分…性的に魅力的で、それが自分の知らない誰かに、いかがわしい衝動を起こさせていることの証明ですからね。多分、ご主人は送りつけられてくる奥さんの盗撮写真や、ひわいな手紙や、それに奥さんが実際にいたずらされたという事実を恐れると同時に……その見知らぬストーカーが奥さんに対して抱いている、いかがわしい感情を共有したと思うんです。それで、そのことによってすごく亢奮したと思うんです。」
 「………」
 はっきり言って、おれは充分にその感覚を理解できなかった。
 だいいちおれは結婚したことはないし、女とつきあったこともあるけど、そこまでのめり込んだこともない。そりゃ、自分の奥さんや恋人に、そんな危機が迫っていると知れば、心配して不安になるのはあたりまえだろうよ。でも、それで亢奮する?そんな妙なことがあるもんかね?
 「……女性も女性で、“見知らぬ卑劣なストーカー”の魔の手が自分の妻に迫っていることで不安がり、亢奮するダンナさんの姿を見て、またすごく亢奮したんだと思います。毎日そんなご主人の姿を見れば見るほど……女性は歪んだ亢奮を高めていったんでしょうね。不倫SMの相手と繰り返していたSMプレイにも、前にも増してのめり込んでいったでしょう。というか、実際に秘かに繰り返していたSMプレイの延長として、“卑劣なストーカーに狙われている自分”をご主人に対して演出していたんでしょう。夜、ゴミを捨てにいったときに襲われた、というのは、その願望がエスカレートしていったことの証です。………それを聞かされたダンナさんは、どんな気分だったでしょうか?
 「え、やっぱり亢奮したと?」
 「ええ、勿論。ですから、女性が演出した狂言の“誘拐・監禁”事件も、当然その延長です。行方不明になっていた3日間、女性はその男とこもりっきりで、SMプレイに打ち込んでいたそうです。……わたしが思うに、女性が行方不明になったことを伝えるテレビのニュースなんかも、ちゃんと観てたんじゃないからしら。それで、ますます亢奮したんでしょうね。そして奥さんの無事を祈っている、ご主人の心境を思うと……」
 「……まったく、人騒がせな変態ですね」
 奥さんははっと顔を上げ、おれの顔を見た。目がまっすぐこっちを観ていて……その透き通った表面におれは溺れそうになった。
 「…そう思います?」奥さんは言った「あなたは、どう思います?もし、あなたがこの女性のご主人なら、どう思います?……奥さんが行方不明の間、何をされていたのか、頭の中で荒れ狂う妄想で倒れそうになって、 やっと真相が分かったと思ったら、それが奥さんと見知らぬ男の狂言だなんて知ったら?……その3日間、二人が世間の騒ぎを嗤いながら、どんなすごいことをしたのかと思えば…………」
 「…………どうなんでしょ」本当にそれ以外、答えようがなかった。
 「……わたしなら、多分、死んじゃいます
 「……はあ…………」
 奥さんはそのまま俯いたまま黙ってしまった。おれもどんな言葉をかけていいものか、いたたまれない気持ちになった。
 で、その話とおれは何の関係があるんだ?
 「……あたしたち……」“奥さん”が小さな声で言った「……あたしと主人は、もうこれを逃せば後がないんです。あなたは結婚されたことがないでしょうから、わからないでしょうね。……その……セックスなんて、結婚生活の一部に過ぎないし、そんなに重要なものじゃないって思われるかも知れません。あたしだって、そう思ってました………その、主人が……出来なくなるまでは
 「………」おれは賢く黙っていた。
 「………でも、それがなくなると、二人一緒に暮らしているという事実が、……その、セックスなしに二人でままごとのような生活を送っているという事実が、無性に、死にたくなるほど、寂しくなるんです。……たぶん、あなたにはわかっていただけないと思いますけど……主人が優しければ優しいほど、セックスが出来ないことに彼が負い目を感じていると思えば思うほど、そのことが悲しくなって…セックスを求めている自分自身が、とても賤しい人間のように思えて……」
 
 “奥さん”の透明な目から、氷から溶けだした水のように、涙が一滴流れた。

 「だから、そのために、あなたとのセックスの様子を収めたビデオを、二人で観たんです。……効果は絶大でしたけど……それも長持ちしませんでした。だから今日、あなたにこのお願いを……」
 
 “奥さん”はハンドバックから、ペーパークリップで留められた50枚ほどのA4コピー紙の束を出した。そして、それをおれに手渡す。
 「……1週間後の夜11時に、うちの家に来てくれますか。住所と地図は、最後の紙に書いてあります。いいですか、早すぎても遅すぎてもだめです。11時きっかりに
 おれは面食らいながら、ぱらぱらとその紙束をめくった。何かの台本のようだった。セリフやどのように動くかが書いてあり、演劇の台本よりもさらにト書きの内容は濃密だった。
 おれはすぐ、その“段取り”を記した台本が、ただならぬ内容であることに気づいた。
 「……“奥さん”、これは……」おれは“奥さん”の顔を、ちらりと上目遣いに見た。
 「………お願いします。わたしたち夫婦を助けて下さい。そのとおり…そこに書かれているとおりのことを、してほしいんです。そうでないと……あたしたちは…もう……」“奥さん”はおれの手を取った「それなりのお礼は考えています。あと、必要な小道具なんかは、2,3日中に宅急便で送りますので、住所を教えていただけますか?」
 “奥さん”は真剣だった。おれは住所を教えた。
 
 翌々日、ほんとうに宅急便は届いて……中には 4メートルほどのロープが2本、手錠がひとつ、ガムテープ一巻きと、黄色で赤いぼんぼりのついたスキーマスク、そして危険極まりない物騒な凶器…ゴム製のナイフが入っていた。ご丁寧に、コンドームもひと箱。



※“奥さん”が語った事件は、2002年に東京都内で起きた実話です。

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