インベーダー・フロム・過去
作:西田三郎「第19話」 ■3年の孤独
「……こ、……公一??」
電話口の向こうから微かに、公一の息の音が聞こえた。多分、外からだろう。遠くでパトカーかなにかのサイレンの音がする。公一は黙っていた。
「……もしもし?公一?今どこに居るの?」
「……」無言だが…その無言は明らかに公一の無言である。わたしにはわかる。
「……どこに行ってたの?3週間も」
「……どこにも行ってないよ」と、公一が初めて言葉を発したと思うと、すぐ咳を喉に詰まらせた「……ずっと、君の半径2キロ以内にいたよ」
「……え?」
「寂しかった?……いや、そうも見えなかったけど」
「?……あの……」
どういうことだろうか。わたしの半径2キロ以内にずっと居た?…わからない。というかここのところずっと精神を保ってるスコッチのだるい酔いのせいで、頭が働かない。
「楽しかった?この3週間。いろんな懐かしい男に会えて、それはそれで楽しかっただろ?」
「な…何言ってんの?……ねえ、教えて。今、どこに居るの?3週間何してたの?わたし……わたしもう、何がなんだかわかんない。どうなってるの?ねえ、これ、一体なに?」
「……たった3週間のことだろ。短いもんじゃないか」公一の声は、ぶっきらぼうで、すごく冷たかった。受話器を当てている耳から、自分の体が凍り付きそうな気がした。「……で、見つかった?」
「……何が?見つかったって、何が?」
「知ってるくせに」
「………わからない……わかんないよ」
「……君が何をしようと君の自由だけど、そんな風にお酒を飲むのはよくないね。一人で酔いつぶれるために、ツマミもなしに強い酒をガブガブやるなんて、まるでアル中だぜ」そうかも知れない、とわたしは思った。「……酔っぱらってるから難しいことが考えられなくなってるんだよ。みんな酔うとそうなるけど、君の場合はそれが酷い。あの晩もそうだった……君はどうも、全く覚えてないらしいけどな」
「……何?あの夜って……」
「……僕のネクタイで目かくしされたまま目を覚ましたろ。あの前の晩のことだよ」
「…………え?」
「………はあ……」公一は深い溜息をついた。わたしはまるで自分が、言葉の飲み込みの悪い馬鹿な子どもになったように感じた「……ああ、ほんとに覚えてないんだ」
「………わたし……わたし、すっごく寂しかったのよ?なんでこんなことができるの?なんでわたしに、こんなひどいことができるの?」いつまで経っても冷たい態度を崩さない公一に対して、わたしの感情が爆発した。「だいたい何?“見つかった?”って…何わけわかないこと言ってんの??いつまでわたしを苦しめるの?ねえ、一体、どういうつもりなの?ねえ、これは一体いつ終わるの???」
公一に言葉をぶつけながら、いつのまにかわたしは誰に対してこんなに怒っているのか判らなくなった。勝手に居なくなって3週間何の連絡も寄越さずに、いきなり電話してきてわけのわからない嫌みをいう公一に?それとも電車の中でわたしにいやらしいことをし続けたあの男に?夢に現れてはわたしを蹂躙するあの顔のない“シマハラ”に?……それとも過去の男たちに?
わけがわからない。
感情が湧き出て溢れるに任せた。気が付くとまた泣いていた。
言葉が出てこなくなって、わたしが受話器を握りしめたまま荒い息をしていると、それまでずっと我慢していた公一が口を開いた。
「……3週間くらいなんだよ。僕なんて3年だぜ」
「え?」
「……人間、どれくらい孤独に耐えられると思う?少なくとも僕は、3年が限度だった」
「……3年って……何が?」
「……君は覚えてないだろう。目を覚ましたときはすっかりそれを忘れていて、何食わぬ顔で僕におはようと言うんだ。僕は君と結婚してからの3年間、一回も朝までぐっすり眠れたことはない。一回も…一回もだ。わかるか?この辛さが??」
「……な……何のこと?」わたしには本当に判らなかった。酔いの所為ではない。
「………君は、毎晩。それこそ毎晩、うなされていた。いや、うなされてたって言うんじゃない。眠りながら悶えて、喘いでいたんだ。シーツの上で体をくねらせ、太股をきつく閉じて、シーツを噛んで、腰を浮かせてね。多分、君には想像もできないだろう。自分の妻が毎晩のように淫夢を見て、悶える様を見せつけられる亭主の気持ちはね。人間は誰でも、眠れば必ず夢を見るらしいよ。目が覚めたときに、その内容を忘れてしまえば、人間はゆうべは夢を見なかったと感じる。だけど眠っている間の脳は、いつも夢を見てるんだ。君は毎晩、何かしらないけどいやらしい夢を見て、夢の中に出てくる何者かに犯されて、僕の目の前で悶えてたんだ。判るか?……何よりも傷ついたのは、僕とセックスをした夜も、君が同じように悶えたことだ。そして、いつも……いつも、君は散々悶えた後、寝言でこう呟くんだ………“シラハマ、シマハラ”って。それが結婚してからこっち、3年間続いた……もう限界だった」
「……」
「………何なんだ、“シラハマ・シマハラ”って?それが毎晩夢の中で君を犯してる男の名前だろうか?僕は寝ても醒めてもそのことを考えていた。よく考えれば、僕は君の過去についてあまり知らない。別に知ろうともしなかったし、知りたくもなかった。僕は、君と結婚できて幸せだったからね。こうして目が覚めている間の君と、楽しい毎日を送っているだけで充分じゃないか。過去がどうあろうと、僕には今の君がいるんだし、それでいいじゃないかって考えようとした……でも、それでもダメだった。どうしても毎晩、ベッドの中で夢を見て悶えている君を見ると……君の過去を想像せずにおれなかった。どうしても君の過去について知りたくなったんだ。3ヶ月ほど前、君が留守のとき、僕は一人で部屋にいた。引っ越ししてきて以来、段ボール箱の中に入れたまま仕舞いっきりになってた君の私物を探ったんだ……日記帖や、手紙や、写真や、そんなものがないかどうか探すためにね…不思議な気分だったよ。見つけようと必死に探しながら、何かを見つけることがすごく怖かった。とっても矛盾した気持ちだった。“僕は一体何をやってるんだろう?”って何度も思った。部屋は暑くなかったけど、なぜか全身にいやな汗をかいた。段ボールの中身をひっくり返しても、君の子供時代の写真が入ったアルバムやら卒業少々やら寿退職のときの色紙やら、そんなガラクタしたしか見つからなかった。……あ、ごめん。ガラクタってのはちょっと言い過ぎだったな。……安心したような、残念なような複雑な心境で段ボール箱にものを詰め直してるときだった……見逃していたものがあった……本だ」
「…本?」
「…ガルシア・マルケスの『予告された殺人の記録』の文庫本さ。覚えてない?」
「……ええと…」やはり、覚えていない。
わたしはあまり本を読む方ではないので、自分で本を買うことはあまりない…多分誰かに無理矢理押しつけられるように貸されたものを、読まずに放っておいてそのまま借りていることすら忘れたのだろう。借りパクというやつだが、貸した方も多分すっかりそんな本を貸したこと自体忘れていると思う。
「……まあいいや。とにかく、それを捲って見ると…それに一枚、写真が挟んであたんだ。そう……あの写真さ。まだ髪が短かった頃の結婚前の君が、上半身裸で胸を腕で隠して立っているあの写真だよ」わたしは出すべき言葉を失っていた。
あの写真を入れている自分のカバンの方に目をやった……目がX線になって…カバンの中のあの写真だけが鈍く輝いているのが透けて見えているような気がした…無論、気のせいだけど。
「……確かに……」公一はそう言って咳払いをした「…結婚前の君がどんなだったかなんて、僕には関係のないことだ。君が過去になにをしていようと……それが今の僕たちの楽しい生活を脅かすわけじゃない。僕は、僕の中の“理性的な自分”がそう言っているのを聞いた。いや、そう思いこもうとしていたんだな。でも………もうひとりの自分が言った……『そうじゃないだろう?……もしそれが今のお前にとって問題ではないのであれば、なんでお前はヨメさんの私物を漁ったりしてるんだ?本当は悔しいんだろう?奥さんの過去に自分の知らない男との情交があったことが、悔しくて溜まらないんだろう?』……僕は、あっという間に、“もう一人の自分”に負けた」「……そんな……」わたしは何を言おうとしたのだろうか?とにかくそれ以上言葉が出なかった。
「……こんな僕は、みじめだろう?」公一が感情のない声で言う「世間のダンナ様方は、皆こんなことに折り合いをつけて、苦もなくそれをやり過ごしているんだろうな。自分の奥さんが昔、どんな男と何をしたのだろうと思うと…心が暗くならない男は居ないだろうけど……それに加えてその事実自体に欲情する男も居るんだよ。僕がそうさ………判ってる。そんなことは自慢できたことなんかじゃない。それに……僕は世の中の一人前の男たちと同じように、“そんなことは夫婦お互い様さ”と割り切ることができない」
「……公一……」共感できない話だったが、公一の痛みと寂しさを想像することはできた。「……君と結婚するまで、僕は童貞だったんだよ」
そのことは、さすがに知らなかった。
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