イグジステンズ
〜存在のイっちゃいそうな軽さ〜


■5■ 変態じじい

  そこから記憶がフェードアウトして、目を覚ますとわたしは駅前の……どこの駅だ? ……チェーン店らしい居酒屋で飲んだくれていた。
 絵に描いたドラマの酔っ払いのように、テーブルに突っ伏していたようだけど……この店に入った記憶がまるでない。目の前には8分の1ほど気の抜けたビールが入った大ジョッキがひとつ。一体、何杯飲んだのかもわからない。
 ツマミもアボカドの刺身以外はほとんどろくに頼んでおらず、お通しの冷奴にもほとんど手をつけていない。

 と、そのジョッキ越しの歪んだ視界の中に、男が……黒いスーツを着た男の姿が見えた。

 男? ……あいつ?……まさか……えーっと……なんつったっけ……あののっぺりした顔をしたストーカー? ……ウシ、とかなんとかいったっけ?? ……あいつと飲んでたの? わたし?

 ガバッと身を起こすと、視界がぐらり、と歪んだ。
 頭蓋骨の中で液体に浮かんだ脳みそが、小船のように揺れたような感じだった。

「おっと……」黒いスーツの男が言った。牛島ではない、嗄れた声だ。「……大丈夫ですか?」
「あんら……」ろれつが回らない。「られ?」
「いやいや、ええと。何と申し上げたらいいか……あなたがお一人で飲んでらしたので、失礼を承知でお声がけさせてもらった、通りすがりの年寄りですよ」

 痩身の、顎の長い、白髪の……確かに年寄りだった。見たところ、70歳は軽く越えている。
 目は穏やかで、話し方はじつに丁寧で紳士的だった……しかし、まるで記憶がない。

「ええろ……わらし……何杯飲んだんらっけ?」
「さあ……? わたしがお声がけしたときはもうすでに、かなーり酔ってらっしゃるみたいでしたけど……とにかくわたしがご同席してからは、すでに4杯の『大』と、2合のお調子を二本、お召し上がりになっておられたようですね」
「……ううう」そうか、そりゃ気分が悪いはずだ。

 ……ってか、ここまでひとりでヤケ酒したのなんて、お酒を飲むようになってこの方、はじめてのことだ。
 それよりも飯田に言われたことが、わたしにとってそこまでのショックだった、というのがダブルパンチでショックだった。
 あの場ではクールに受け流したつもりだったのに。

 ええ、ちょっと待って。わたし、泣いてたの?
 ……さっきで顔を伏せていたテーブルが濡れている。まったく、屈辱的このうえなかった。

 飯田がクソろくでもない奴であることくらい、わかっていたはずなのに。
 それを改めて確認しただけの話だったのに。
 ってか、何でこんな見知らぬ老人とわたし、飲んでるんだろうか。
 ま、まさか……このジジイ相手にわたし、飯田に関するグチを並べ立てたりしたのだろうか。
 そ、そんな……いくら酔っていたとはいえ……そこまで屈辱的な敗北なんて、あんまりじゃないか。

「……忘れてしまいなさいよ。そんな男なんて」老人が言った。
「………ぐうう」やっぱり、喋ったんだ。もう、死んじゃいたい。
「……見たところ、あなたはきれいで、魅力的で、若くて、とってもチャーミングだ。長い人生です……そりゃあ、選択を誤ることもありますよ。たまたま、ろ くでもない男に引っかかっただけです……これから先、きっといいことがあります。人生、まだまだこれからじゃないですか」
 男はまるで孫を慰めるような優しい口調だった。悲しみと吐き気が、急に込み上げてきた。
「………しべっらんら……わらし……えっと……なにしゃべっらんらっけ?」相変わらず、呂律が回らない。「ごめんれえ……なんらか……ろーでもいいいはらしばっかりらったんらない?」
「いえいえ……聞けば聞くほど、あなたの真摯な思いが伝わってきましたよ……お嬢さん、男の中にはね、そういうふうに、女性の気持ち……とういか、他人の 気持ちを理解することのできない、とても『感度』の鈍い奴もいるんです。わたしが思うに……近年、そういうタイプの人間が多くなっているような気がしま す。世界中の人間の『感度』が、どんどん鈍くなってるように感じる……その男性……飯田さんでしたっけ?(ああ、名前まで言ったんだ)彼も、あなたから、 その繊細な心や、やさしい心遣いや……愛情や……まあ口にするのも何ですけれど……セックスに関する献身的な思いを感じ取ることができなかった。それは 『感度』の問題なのです」
「せっくる?」……おいおいわたし、そんなことまで喋ったのかよ。
「いつも……彼は……あなたの部屋にいきなり訪れては……あなたを、かなり手荒に扱った……そうですよね? ……いや、あなたからお伺いしたことです。その……いつもいつも、彼は後ろからあなたを獣のように攻め立てるばかりだったとか……」
かえりまる」いったい、こんなエロじじい相手に何をしゃべってんだ、わたし。

 席を立とうとしたが、頭はまだふらふらで、脚に力が入らなかった。
 
「おっと……大丈夫ですか。まだ少しゆっくりしていかれたほうがいい」
 男はそういうと、店員に熱いお茶を二つ頼んだ。
 そして、細く、長い顔でわたしの顔をスキャンするように見た。特徴の多い顔だった……よく見ると、眉毛がつながっていて、鼻が曲がっている。
 目は落ち窪んでいるかのように深い。
 まるでちょっと狂気が入った画家が、暗い部屋で鏡を見ながら描きなぐった自画像のような顔だった。
 一度見たら、なかなか忘れられない顔だ……あの牛島とはまったく違う。
「らっぱり……かえりまる……」
「いいや、まだまだゆっくりしていってください……あなたには、類まれな『感度』を感じます。近年の人間が失いつつある、人間として必要不可欠なものであったはずの、敏感な『感度』です。他人をよく理解し、自分を越えて他人のなかにわけいっていくような、鋭い『感度』です。わたしがあなたにお声がけしたのは、あなたにそれを感じたからです」
「ええろ……?」
 何言ってんだこのジジイ。

 と、テーブルの下で、わたしの膝に、かさかさの手がふれた。

「ひゃっ……」
「うん……」ジジイが目を閉じて、わたしの膝小僧を撫で回す。

 ビビビ、っと朦朧とした意識の中で、その部分だけが生物的に反応した。

「らに……すんろよ……」かさかさの手が、太腿を這い上がってくる。「んっ」
 でも、席を立つことはできなかった。
「やはり思ったとおり……あなたは『感度』がいい」
「らめ……らって……らめ……っ……」アホみたいな抵抗の口調。てか、『感度』ってそっちかよ。
 じじいの手がますます大胆になって、わたしの太ももをねっとり、こってりとなでてくる。
「ほらほら……ほんとうにあなたは、『感度』がいいですね……」
「りが……い……まるっ……」“ちがいます”わたしは言ったのだ。「あんっ!」

  じじいが内ももを撫で回す……えっ……えっ……ちょっと……どうなってんのこのじじいの手……“怪物くん”みたいに伸びてるとしか思えない……正面に座ってんのに……な、なんでそんなとこまで触れるわけ?……や、や、やばい……やばいこのままじゃ……このままじゃ……

「ひゃっ……あっ!」
 ショーパンの裾からじじい指が入り込んできて、下着の脇をくすぐっている。
「……おや、もう濡れているふうはありませんか?」
「りり……し……し……しりまれん……」舌の回りが戻らない。これじゃまるでアホそのものだ。
「なぜ濡れているんです? ……なぜ興奮しているんです?」
「しら……ないっれば……」
「あなたは、わたしを通して……自分を欲情させているのではありませんか? ……こんな老いぼれが、年甲斐もなくあなたにけしからん悪戯をさせる気を起こしている。つまりこのくたばり損ないは、あなたに対して欲情しているから、いい年をしてこんなはしたないことをする。そのくそじじいの、なけなしの欲情をあなたが『感受』したから、あなたの『感度』が高いから、あなたは興奮して濡らしている。そうは思えませんか?」
「なに……わけの……わらんないこと……あんっ!」

 指がショーパンの裾から下着の中に入ってきた。
 ええまあはい。濡れてました。確かに濡れてましたよ。どーもすみません。
 抵抗しなかったのは、かなりヤケになっていたからだろう。
 
 断じて、気持ちよかったからではない。と言っておく。

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