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作:西田三郎「第2話」 ■結婚から初夜まで
「こんなことを続けていてはいけないよ」夫はその時のわたしに、言いました。
夫はわたしと以前買春した男の、知り合いの知り合いの知り合いでした。
何でも、「破格でやらしてくれる若い女が居る」ということが夫の知り合いの間中で話題になっていたらしく、はじめ、夫はわたしの前に客として姿を現しました。
ですのでその時のわたしの目には、夫も他の男達と同じ、薄っぺらで中身ががらんどうで、性欲によって歩き、食べ、排泄しているロボットのような存在としてしか映らなかったのです。
「何で、こんなことを続けてるんだい?」夫は真っ直ぐにわたしの目を見て言いました。「君みたいに、若くて、きれいで、頭の良さそうな子が、なんでわざわざこんなことで自分を貶めているんだい?」
「ふん」荒みきっていた当時のわたしにとって、夫の言葉は耳障りな雑音のように聞こえました。「そうやって説教すんのが好きなの?そうすると興奮するわけ?」
わたしは夫を嘲笑いました。事実、こんな生活を続けているわたしに、意味のない説教をする客は少なくありませんでした。男達は行為が終わってから、わたしの生活と人格と存在の全てを否定し、長い意味のない説教をするのです。はじめのうちは反感を覚えましたが、次第にそれが男達にとって、行為の後に行う後戯のひとつであり、そうすることによってわたしの存在を貶めることが、男達を満足させているということに気づき、以来、わたしは男達の言葉を聞き流すようになっていました。
わたしの心はそこまで荒みきっていたのです。
しかし、行為の前にこのような説教をした男は夫が初めてでした。
わたしの嘲笑に、夫は怒りもせず、ただ悲しそうな顔をするだけでした。
「どうしたの?しないの?したくないの?」わたしはさらに夫を嘲りました。
すると夫は、ますます悲しそうな顔をして、こう呟きました。
「僕は、君とはしない。お話するだけでいい」
「お話するだけ?」わたしは一瞬、面食らいましたが、所詮目の前に居るのはただの男です。わずかな出資で小さな満足を買いに来た、安っぽい男の独りに違いありません。「でも、お金はちゃんと貰うけど、それでいい?」
「いいよ」夫はいいました。「じゃあ、もう一度聞くけど、なんで君はこんなことを続けているんだい?」
「何でって…」わたしは言葉に詰まりました。
非道い失恋をしたせい?
いや、そうとも言い切れません。
それによって受けた心の傷を癒すには、ほかにいくらでも方法はあった筈です。
誰のせいでも、何のせいでもありません。
わたしは自らこのような爛れた生活に身を投じ、自分を痛めつけていたのです。
「どうでもいいから、することだけしたら?」私の心は少し揺れていましたが、嘲笑のポーズだけは崩しませんでした。まともにものを考えることから、逃げていたのです。「それとも何?あんたインポ?」
「そうだよ」夫は呟きました。「僕はインポだ」
これにはわたしも絶句しました。じゃあ何なのだろう、この人はそれ以外のことで満足しようとしている変態なのだろうか。事実、何度かそんな客と出会ったことはありました。
ある客はわたしの全身にローションを塗り、4時間もヌルヌルになったわたしの躰をなで回しました。挿入も射精もせずに。またある客はわたしに目隠しをし、恐らく羽箒のようなもので、わたしの躰をくすぐり続けました。実際に性器の挿入が出来ないのか、そのことに興味がないのかはわかりませんが、そうした性の愉しみ方もあるのか、と当時のわたしは男という生き物が持つ欲望の裾野の広さに驚きを覚えたものです。
しかしそんな客と出会った時の後味の悪さは、長く尾を引く厭なものでしたが。
「…じゃあ、どうやって愉しむわけ?」わたしは夫に聞きました。
「一緒に手を繋いで、寝てくれないか」夫は言いました。「それだけでいい」
わたしは何か納得のいかないものを感じながらも、夫が求めるとおりのことをしました。
その晩、夫はそれ以上のことを何もせず、わたしたちはそのまま朝を迎えました。それ以来、夫は何度もわたしの前に現れるようになりました。
そのたびに私は、夫と手を繋いで眠りました。眠るまでのわずかな間、少しずつ夫は自分の事を話しはじめました。奥さんが亡くなられて4年になること。それ以来インポテンツであること。奥さんとの間には子どもが無かったこと。奥さんが亡くなった時にはじめて、自分は奥さんに優しく接することができていなかったということに気づいたこと。会社を定年退職したこと。それ以来、ひとりぼっちの家で孤独に暮らしていること…等々。
当時の乾ききっていたわたしの心に、夫の言葉は水のように染み込み、いくつもの染みを作りました。夫はあのような生活を続けていた私を、一言も責めませんでした。
今となってはもう確かめる術もありませんが、あの時夫は、自分の心をからっぽにしていた暗い闇のような孤独を、わたしの中にも見いだしていたのかも知れません。
そんな状態が半年続き、わたしたちははじめて“ちゃんとした交際”をはじめました。
公園にお弁当を持って出かけたり、動物園に行ったり、観覧車に乗ったり、そんなまるで中学生のようなデートの日々。実際にインポテンツであった夫が、わたしに肉体関係を求めることは、一切ありませんでした。わたしも男性と空しい肉体だけのつながりしか持てなかったそれまでの日々に、疲れ切っていたのかも知れません。
そうしたままごとみたいな交際の末に、わたしたちは結婚しました。
わたしたちは、ちゃんとした式も執り行わず、婚姻届けだけを出して結婚生活をはじめました。
わたしはずっと夫と一緒に居たくて、勤めを辞めました。
結婚生活は順調でした。結婚までのままごとじみた生活が、そのまま続いているかのように。
わたしたちは毎晩、手を繋いで眠りました。
それぞれの過去のことを話し、また将来のことも話しました。
わたしたちは幸せでした。
確かに勤めをしていたときより金銭的に恵まれていたとは言えませんでしたが、24時間夫と一緒に過ごす生活には、愛情と、お互いへの思いやり、尊敬、笑い、幸せのために必要なすべてがあったと言っても過言ではありません。
ただ、セックスの問題を除いては。
ある夜のことです。いつものようにわたしと夫は、手を繋いでベッドの中に居ました。
ふと隣の夫の顔を見ると、その表情がいつになく曇っていることに気づきました。
夫はまるで天井を睨むようにして、怒っているのか悲しんでいるのかよくわからない微妙な表情を浮かべています。滅多に無いことでした。
「どうしたの…?」私は心配になって夫に聞きました。
「…やっぱり、セックスがないと完全とは言えないな」夫は抑揚のない声でそう答えました。
「え?…」わたしは思わず吹き出してしまいました。「どうしたのよ、急に」
「僕も、愛情だけで夫婦生活を送ることができると、最初は考えていたんだ。でも、やっぱりそれじゃダメなんだ」
「何を言ってるの…?」夫は真剣なようです。
「…僕にだって性欲はある。君は僕より40も若いし、僕以上に性欲もあるだろう。それを消化しないで、このまま楽しい生活が続くとは思えない」
「…そんな…」わたしは、夫の考えが読めませんでした。
私はこれで充分幸せなつもりでした。かつて溺れていた愛も意味もないヤミクモなセックスは、ただ単に自分の孤独を埋めるために繰り返していただけのこと。
本当に欲しいのは、今の夫と送っているような暖かい生活だったのです。
「…僕も、君としたいんだ…愛しているから、したいんだ。判るだろ?」
「…」
「…したくないのかい?」夫が心配そうにわたしの顔を覗き込みます。
「…したくないわけじゃ…ないけど…」
「…ないけど、何?」
「…そんな、無理をしなくたって…」
「大丈夫」夫はいつも通りの優しい笑みを浮かべました。「いい方法があるんだ」
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