蛇蝎 作:西田三郎


■ライク・ア・ヴァージン



 土曜日。
 藤枝は昨日買った白いワンピースに藤色のカーディガンを着て、新しい化粧品で念入りに化粧をして、さらに昨日買った胸を持ち上げる新方式のブラジャーを着けて、七瀬を待っていた。
 待ち合わせ時間の15分前から、待ち合わせ場所である駅前に立っている。嫌がおうにも、胸は高まった。期待してはいけない、舞い上がってはいけない、と自分に言い聞かせていたが、それでもだめだった。
 待ち合わせ5分前に、七瀬は現れた。
 茶のカジュアルなジャケットに洗い晒しのボタン・ダウン。それにチノパンを履いている。スーツ姿の第一印象と同じく、全く自己主張を感じさせない出で立ちである。七瀬は前回と同じ、遠慮がちな、どこか自信なさげな雰囲気で、きょろきょろと周囲を見回し、藤枝を探していた。
 「七瀬さん!」思わず、叫ぶような声が出た。
 七瀬が顔を上げ、藤枝を確認してから、一瞬間を置いて、恥ずかしそうに笑った。
 七瀬が藤枝に歩み寄ってくる。
 「こんにちわ。今日はどうも…」と、七瀬がポケットに入れていた左手を出した。
 1週間前と同じく、七瀬の左手の小指と薬指は包帯で厳重に固定されていた。
 「…あ、手、まだ治らないんですか?」
 「え?」七瀬が自分の手を見る。一瞬七瀬の顔から笑みが消える。「…ああ、これ。もう痛くはないんですけど、医者がなかなか包帯を取るの許してくれなくて…」
 七瀬の顔に、あの少年のような笑みが戻っていた。
 ほんとうにこの人となら上手くいくかもしれない。藤枝は改めてそう思った。しかし、自分にとっては重要な難関があることは忘れてはならない。ひとりでに舞い上がろうとする心を、藤枝は必死に理性で押さえつけていた。しかし、たとえようもなく楽しいのは事実だった。
 二人で映画を見た。トム・ハンクスが出ている。ギャング映画だった。子どもが出てきて、云々。はっきりいってあまり内容は覚えていない。となりに七瀬が座っているというだけで、嬉しかった。手を握ったりするわけでもなかったが、七瀬の体温を感じ、香りを嗅いだ。藤枝を不快にするものは何もなかった。決してコロンなどの香がするわけではなかった。しかし、男性から不快を感じさせない香を嗅いだのはこれがはじめてのことだった。
 映画が終わった後、お茶を飲み、あまり値の張らないインド料理の店でナンと一緒にカレーを食べて、少しビールを飲んだ。店を出てからはまた喫茶店に入ってお茶を飲んだ。
 先日の飲み会の席ではあまり話をできなかった反動からか、藤枝は延々にしゃべり続けた。自分の中にこれほどまでに言葉が入っているなんて、思ってもみなかった。七瀬はとても聞き上手だった。はっきり言って自分が必死でしゃべっていることが面白い内容なのかどうかなんて、自分にはわからない。ほとんどがくだらない、どうでもいい話なんだろう。仕事の話、趣味の話、音楽の話、自分の学生時代の話、子どもの頃の話…誰がそんな話聞きたがる
 しかし七瀬は嫌な顔ひとつせず、さらには相槌を打つだけではなく、要所要所では質問さえしてくれる。それに乗せられるように、藤枝はさらにしゃべり続けた。しゃべりつかれ、くたびれた頃にはもうすっかり夜も更けていた。
 「…そろそろ、遅いから…」七瀬が言った。
 藤枝は慌てて時計を見た。まさに“時間を忘れる”とはこのことを言うのだろう。
 七瀬と一緒に、店を出た。七瀬には食事を奢ってもらったので、お茶代は藤枝が出した
 駅まで一緒に歩いた。永遠に駅に着かなければいいのに、と思った。
 「…今日は、ありがとうございました」藤枝が改札の前で言った。「…あの…」
 「…また、会ってもらえますか?」そう言ったのは、七瀬のほうだった。「今度の、土曜日か日曜日とか…」
 「…もちろん…また、電話します」藤枝は自分の声が裏返っていることに気づいた。嬉しくて気が遠くなりそうだった。
 七瀬は改札に入ると、一旦藤枝の方を振り返りにっこり笑って包帯をした左手を振った。
 藤枝も手を振った。
 七瀬が駅の階段を上り、見えなくなるまで藤枝は見送った。そういえば、あれほどしゃべったのに、七瀬は自分のことに関してあまり話さなかったような気がする。いや、焦るのはよそう。時間はまだたっぷりあるんだから。
 そんなことを考えていると、人が行き交う駅の構内の真ん中にあって、自分の下半身がじゅん、と熱くなるのを感じた。
 ひとり赤面した。
 


 
 

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