痴漢環境論

作:西田三郎



■5■『痴漢環境論』の実践

 この二つの出来事から、わたしは満員電車での通学や、将来の通勤が続く限り、女性専用車両に乗る意外は痴漢から逃れる術がないということ……そして、わたしたちは電車の中で、何にも守られていないことを悟った。
 そこから、わたしが考えたのは、この絶望的な環境に「慣れる」ことだった。
 この世に生きている限り、やるべきことを果たしている限り、避けては通れない『不快なもの』はそれこそ数多くある。
 そこから逃れられないのであれば、慣れるしかない。
 
 例の女子高生が卑劣な痴漢に屈辱的な辱めを受けた翌日から、わたしは考えたことを実行に移しはじめた。
 今となっては定かではないが……彼女を辱めたのは自分なのだ、という思いからくる罪悪感も、わたしの行動を後押ししたのかも知れない。

 翌朝、わたしは女性専用車両ではなく、普通車両に乗り込んでいた。
 内臓が口から出そうなくらい押し合いへし合いの車内の中で……わたしは静かに目を閉じると……昨晩ほぼ徹夜で考えた『瞑想』を実践した。

 一切の感覚を封じるために、心を“空”にする。

 まず、目を閉じることで視覚を封じ、耳から入ってくる車内アナウンスや乗客たちのおしゃべり、電車の走行音に対して、聴覚をオフにする。……そんなこと ムリだろ、と思われるかも知れない。でも……やってみると案外簡単だ。耳から入ってくる音声を一種の信号として考え、脳に伝えないようにすればいいのだ。 わたしはまず、電車の走行音を封じ、車内アナウンスを封じ、そして最後に乗客たちのひそひそ声を封じる。一個一個、家の中の部屋の灯りを消していくような 感じだ。わたしも、実際にやってみるまでは、そんなことは不可能かもしれない、と思っていた。
 
 ……でも、わたしには才能があった。
 わたしは初日から、耳から入ってくる雑音を脳に伝えずにブロックすることに成功した。

 後で気づいたのだが、これはイヤホンで音楽を聞いていれば簡単にできる。
 音楽はバッハのピアノ曲が一番だ。今、わたしの持っているi-podには、バッハのピアノ曲がぎっしり入っている。頭を空っぽにするのに、あれほど適した音楽はない。

 しかし当時、わたしはMDウォークマン(そういう時代だったのだ)も、もちろんi-podも持っていなかったので、自力で聴覚をシャットダウンした。

 案外、難関かと思われた聴覚の遮断はうまくいったので、後はスムーズに進んだ。

 次は、嗅覚を遮断する。聴覚と同じように、鼻から入ってくる人々の体臭……ワキガや、汗の匂いや、スーツに振りかけられたファブリーズや、あくびとともに吐き出される臭い息……を眉間の間でせき止める。
 鼻には蓋はできない。強い精神力がものを言う。

 最後に……触覚を消し去る。
 目を閉じ、頭を空っぽにして、周囲を取り囲む人々に全体重を任せる……これは少し、爽快な気分だった。
 まるで自分が、透明人間になっていくような気分だ。

 電車が走りだして1駅も経たないうちに……わたしは完全な瞑想状態に達し、すし詰めの車内の中で“浮く”ことに成功した。真っ暗な頭の中に浮かんだのは……ふんわりと数十センチ浮き上がり、車内に詰め込まれている自分の姿を、そこから見下ろす光景だった。
 
 成功だ。

 わたしは、満員電車という現代人が社会生活を送る上でぜったい避けては通れない“苦行”から、みごと解脱したのだ。誰の教えも借りず、誰の助けも借りず。

 しばらくわたしは“浮いて”いた……。

 周りの乗客の身体の感触や体温から、完全に開放されている。
 彼ら、彼女らは、わたしを取り囲む『空気』に過ぎない。

 やがて……その空気のなかから、手が伸びてきた。
“きた……”わたしは、望むところだ、来るなら来てみろ、という心持ちで手の動きを待った。

 手が、わたしのお尻をスカートの上から撫でまわす……わたしは何も感じない。
 わたしが抵抗せず、何の反応も示さずにいることに気をよくしたのか、手はわたしのお尻をスカートの上から散々なぶると、スカートを捲りあげてパンツの上から触れてきた。
 わたしはそれでも、何も感じない。
 男の手が……それが男の手だろうと女の手だろうと白熊の手だろうと、もはやわたしには関係がなかった……パンツの布越しにわたしのお尻の肉の感触を楽しんでいる。わたしは何も感じない。
 やがて、遠慮がちにパンツの後ろから……手がその中に侵入してきた。

 ひくっ。

 少しだけ、わたしの精神が肉体に引き戻された。
 いや、でもそんなことでめげてはいけない。わたしはまた、空中に戻った。
 手がお尻の割れ目をなぞり……特に締め付けて閉じてはいない脚の間に入り込んでくる。
 指が、入口に触れた。

 ひくっ。

 また少し、わたしの身体に感覚と心が戻ってくる。
 わたしは意識して感覚から逃れた……男の手が、その入り口を何度も何度もなぞり、その感触を楽しみ始める前に。
 じっくり、ゆっくりと……手は……その手の指は……わたしの入り口を往復する。
 どうってことない……まったくどうってことなかった。
 痴漢の手も、わたしにしてみれば『環境』の一つにすぎない。
 克服すべき『環境』の、ほんの一要素にすぎない。

 「んっ……」ひくっ。

 指が……クリトリスを探し当てて、そこを捏ねはじめる。
 『環境』の一要素にすぎない痴漢が、群衆の中の一部が、わたしに自分の存在を知らしめようと必死であることに、わたしは思わず笑い出しそうになった。
 痴漢は必死で……わたしを快楽の渦巻きに巻き込んでやろうと、クリトリスを刺激してくる。
 身体は反応した……わたしはさらに入口から熱い涙を流して、痴漢の手を濡らし、おそらく痴漢を喜ばせたことだろう。
 しかし、わたしの肉体はその刺激を感じても、心はまだ宙に浮いたままだった。
 学校の最寄駅に着くまでの数分間の間に、わたしの身体は痴漢の思うがままに反応し、それは大いに痴漢を喜ばせたかもしれない。
 しかし、相変わらず、わたしの心は数十センチ上空で、覚めた心でそれを見下ろしているだけだった。

 なんだ……簡単なことじゃないか……わたしは初日で、『痴漢』という『環境』に適応した。
 それを自分で楽しめるようになるまで、さらに4年の歳月が必要だった。



 

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