痴漢環境論

作:西田三郎



■4■第二の確信 〜誰も味方してくれない〜

 この衝撃的な体験があったのは中学三年生の頃。
 その頃にはもう、女性専用車両は生まれていた。
 当然、積極的に利用するようにした。しかし時とタイミングによっては、その車両に乗れないこともある。
 そして、わたしが通学に利用していた路線は、女性専用車両の時間帯を一日のうちで朝のラッシュに制限していた。
 逃げ場がないこともある。
 
 わたしの『痴漢環境論』を決定づけたもう一つの出来事が起こったのは、高校へ進学した1年目の秋口のことだった。
 文化祭のクラス展示(内容は忘れてしまったし、読んでる皆さんも興味ないだろう)の準備で、帰りが遅くなり、いつもよりかなり遅い時間帯の下校だった。 案外、会社帰りの人々で車内は混んでいる。中には酔っ払いもいた……わたしは当時、酔っぱらいのおっさんがが大嫌いだった。今だって好きなわけじゃない。

 酔っぱらったおっさんでいっぱいの夜の電車は最悪だ……。
 酒の匂い、タバコの匂い、服に染みついた炉端焼きの匂い、そしておっさん連中の肉体自体から湧き出してくる死にかけた細胞の匂い……今となってはこれら に『適応』することができるようになったわたしだが、当時十六歳だったわたしは、そうしたさまざまな不快な匂いに包まれていること自体が、全身を撫でまわ されているようで苦痛で仕方なかった。

 途中のターミナル駅を過ぎたときだった。
 いきなり、背後からスカートをめくりあげられた。
 えっ、と思ったが、手はしゃかしゃか、とパンツの布地の感触を味わうと、いきなりパンツのゴムを持ち上げて、中に侵入してきた。男の湿っぽい指が生のお尻の皮膚に触れる。
 四の五の言わせない、素早い動きだった。
 あっ、っと思って脚を閉じたけれど、もう遅かった、脚の間にねじ込まれた男の手を、わたしの太腿は逆にしっかりと挟み込んでいた。
 
 最悪だ。

 ヘトヘトに疲れ切っているときに、こんな目に遭うなんて。
 男の指が……ゆっくりと動き始めて……入口をなぞった。
「や、やめ……」腰を振って背後を振り向こうとしても、身体が思うように動かない、
 もともと帯びていた湿りを男は指で掬い上げ……そしてさらに指を奥に進めてクリトリスを探そうとした。
 
 ほんと、バカじゃないの?
 クリトリス触られたら、どんな状況でも女は気持ちよくなると思ってんの?

 疲れていたせいもあったし、本当に頭にきたこともあったと思う。
 わたしは生まれてはじめて、怒りに我を忘れた。
 『やめてください!!』と男の手を掴んで声を上げるところだった……声を出そうと思ったその瞬間、突然、わたしの真横から、かん高い声が上がった。
 『てめー何すんだよ!!』
 
 その瞬間、わたしは彼女の存在に気付いた。
 年齢はわたしと同じくらい。わたしとは違う学校の制服を着ていた。
 わたしより背が高く、すらっとしていてスタイルのいい、ちょっとキツめの顔をした美人だった。
 その子が、背後に立っていた四十がらみの頭の禿げたデブ親父の左手を掴みあげていた。
 と、視線を下に下すと……なんとそのおっさんの右手が、わたしのスカートの中に侵入していた。
 なんということだろう。
 このおっさんは両手で、その子とわたし、二人を一気に痴漢していたのだ。

 おっさんはささっと……先ほどとは同じ、目にも止まらぬ速さでわたしのスカートの中から手を後退させると、脂ぎった顔を歪ませて、もともとのギョロ目をさらに飛び出させて、一気にまくしたてはじめた。

「な、なんなんだよ!……おれが何したってんだよ?……ええ?ヘンな言いがかりつけないでくれよ!ちょっと尻に手が当たったくらいで、何大騒ぎしてんだ よ!……自意識過剰なんじゃねーの?……誰がテメエみたいなジャリタレの、ションベン臭いケツなんか触るかってんだ!……短いスカート履きやがって、脚見 せつけといてよお!ちょっとケツに手が当たったら、男はみんな痴漢かよ?……え、まじでてめえ、おれがてめえのケツ触った、って証明できんのかよ?……で きんのか?……たまたまおれが後ろに立ってた、ってだけだろ?……触ってたのが誰かなんて、どうやって証明すんだよ?」
誰がどー考えてもてめーだろーが!」その女子高生は怒りで顔を真っ青にしていた。「おっさん、おい、わかってんな?……次の駅で降りろよてめえ!駅員に突き出してやっから!」
はん?冗談じゃねえ!」おっさんが口の端に泡をためてやり返す。「おれがてめえのけつを触った、って証拠、いったいどこにあるんだよ?……なあ、誰か、 第三者でそれを証明できる人間がいる、ってのかよ?……ええ?……なあ、この車両の中で、それを証明できる奴がいんのかよ?……ええ?……言っとくけど、 テメエがおれを駅員に突きだしたとして、もしそれがおれの仕業だって証明できない場合、てめえ、その責任をどうやってとるつもりなんだよ?……おれには家 族もいるし、仕事もあるんだぜ?……『間違いでした。ごめんなさい』で済ませられることじゃねーんだぜ?……なあ、誰かいるか?……おれがこのガキのケツ 触ってた、っていうこと、証明できる奴、周りにいるか?」

 おっさんはまるでシェイクスピア役者のように、一人でまくしたて続けた。
 今から思うと……おっさんはきっと、こういう事態に備えて、頭の中で何回も何回も何回も何回も、こういうセリフを推敲し、記憶し、いざというときのためにまくしたてられるよう、準備していたのだろう。

「触ってたよね?……誰か見てない?……このおっさん、あたしのお尻触ってたよね??」

 女子高生がほとんどヒステリックな調子で周りの乗客に問いかける。

 彼女はこのおっさんがもう一本の手でわたしを痴漢していたことに、気づいていなかったようだ。
 今でも……思わない日はない。
 あのとき、彼女の味方をしてあげられるのは、車内でわたし一人だけだったんだ。

 周囲の乗客は……ほとんどがサラリーマンかOLで、ほとんどが酔っ払っており、しかも、面倒なことには巻き込まれたくない、という顔をしていた。全員が、彼女と……おっさんから目を背ける。

ねえ、あんた!」その女子高生があたしに言う「触ってたの、わかるよね?証明してくれるよね?」
「えっ………」

 わたしは口ごもってしまった。
 そして……何も言わず、俯いた。同意からも否定からも、わたしは逃げた。

「……ほれ、見ろよ!誰も、誰も証明できる奴なんていねーじゃないか!……ははん……さてはお前、アレだな?……おれに痴漢だの何だのと言いがかりをつけ て、ゼニでも強請ろうって魂胆なんだろ?……いかにも最近のメスガキの考えそうなことだぜ!……何だよ、その短いスカート茶髪はよ!おまけにピアスなんか空けやがってよ!……それで、男を誘っ て、触ってきたら騒いで、小遣いでも稼いでんだろ?……おれは、テメエに触ってもいねーぜ!……悪かったな!アテが外れたな!……おれは自分で言うのも何 だが、交通違反ひとつしたことねえマジメな社会人なんだよ!テメエは何だ?……チャラチャラしたメスガキじゃねーか!何の証拠もなしに出るとこ出たとし て、どっちの言い分が信用されるかなあ?……おれは裁判で戦うつもりあるぜ!みんな、おれがどんなにまともでマジメで誠実な人間かは、おれの友達がよーー く知ってる。てめえに勝算はねえぜ!」

“ほんとうに誠実な人間は自分のことを『誠実だ』なんて言わないよ……”

 当時のわたしはそう思いながら、心の中では涙をぽろぽろ零して泣いていた。
 なぜ、あのとき、彼女に味方してあげなかったんだろう……?
 わたしだけが、彼女の屈辱と怒りを共有できたのに。
 なぜあのとき、俯いて黙り込んでしまったんだろうか……?

 次の駅で、女子高生はひとりで降りて行った。
 降りざまに、彼女が車内を睨んだ。憎しみと怒りと屈辱のせいで、涙が一杯に溜まった目で、おっさんと……わたしたち乗客を。
 一瞬、彼女の視線がわたしの視線を、まともにとらえたような気がした。たぶん、気のせいだが。
 ドアが閉まった後も、わたしはそのまま消えてしまいたくて仕方がなかった。
 
 背後には、あのおっさんがまだいて、亢奮のせいか、ふしゅー、ふしゅーと鼻で息をしている。
 おっさんお手が、再びわたしに伸びてくることはなかった。

 わたしはこのときに完全に悟った。
 “この世界は……”唇を噛んで、頭の中で言葉を続ける。“少なくともこの満員電車という世界は……痴漢たちのものだ



 

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