青ひげ
作:西田三郎
「第6話」
■自分で決めたこと
それから……青山はわたしが残業している度に、わたしの席にやってくるようになった。そしてあのマッサージ棒で、わたしの背中を散々グリグリしては……わたしを机の上に這い蹲らせた。わたしは彼からマッサージを受ける度に、いつもフラフラになって家路についた。
そして一人の部屋に帰ると……いや、まあその話はやめとこう。
事実、彼にマッサージを受けた翌日は……身体の調子が実に良かった。
第一に、寝覚めがいい。それどころか、それまではほとんど朝ごはんを食べなかったのに、お腹が空いて目が覚めるくらいにさえなった。疲れにくくなったし、肩の凝りがなくなったせいで頭の重さもなくなった。視界がクリアになり、日に日に落ちていく視力も、ほんの少し回復したようにさえ思えた。しかしそんな身体の調子のよさが続くのも、3日が限度だった。
マッサージ効果も薄れてだるさが戻ってきた身体に鞭を打って残業を続けていると……いつの間にか背後に青山が立っている。手にあの“マッサージ棒”を握って……。ある夜のことだった。
いつものようにオフィスはわたしと青山のふたりきり。
わたしは青山に背中をグリグリされては……とても人には聞かせられないような恥かしい声を上げてその気持ちよさを噛みしめていた。
「……うっ………くっ……ああっ……」わたしは横目で青山を見上げる「……もうちょっと……もうちょっと左……」
「ここですか?……」グリグリ。
「くううっ……そ、そこ……もっと……」こんなことをしているところを人に見られたら、何て思われるだろう?
きっとわたしと青山はデキていると思われるに違いない。
いや、ちょっと待て。
ふつう、一般的な女子は恋人でもない相手にこんなことをさせないものだろうか?……こういうことを恋人でも何でもない相手にさせているわたしは、実のところものすごくふしだらでいけない女なのだろうか?
わたしも今年で26だ。
ここ2年彼氏はおらず、今のところ出来る様子もない。
はっきり言って、その……なんというか、そっちの方面ではかなーり欲求不満が溜まっている。いや、正直に言うけども、溜まりまくっている。わたしはそういう欲求不満の捌け口として、青山にこんなことをさせることを許しているのだろうか?
いやいや、違う違う。
だって青山は、わたしの身体に直接触っているわけではない。
あのマッサージ棒で、服の上から、わたしの背中をグリグリしているだけのことだ。それ自体は、まったくいやらしい行為ではない。彼がどういうつもりでわたしが残業のたびにこれをしてくれるのかはさっぱり判らないが、彼自身からは今のところ、そういういやらしい気持ちはまったく感じ取ることができない。これはマッサージなんだ。そうそう、単なるマッサージ。後輩の男の子が親切心でしてくれる、軽いマッサージ。それ以上でもそれ以下でもない。つまり、勝手にいやらしい気分になっているのは、このわたしなのだ。
「………」背中を青山に預けながら、ちらりと横目で彼の顔を見た。
「……何ですか?」青山があの屈託のない笑顔で笑う。
「……ねえ、青山君。なんでわたしにいつもこんなことしてくれるの?」
「……何でって………」青山が口ごもる。「……いや、別に。いつも川辺さんがお疲れみたいだから……その、別に。深い意味はありませんよ」
「……疲れてそうな相手だったら、誰にだってこんなことするの?」
言ってしまってから、妙な気分になった。
なんだかおかしなムードだ。しかも会話をおかしなムードにもっていってるのはこのわたしなのだ。「……別に……そういうわけではないですけども………」
「……ふ、ふ〜ん……」わたしは彼から目を逸らした。「……そうなんだ………へ〜え……」
「……川辺さんはね、この会社でも特に疲れてらっしゃるみたいだから」と青山。「……働きすぎですよ……いつも最後まで残ってお仕事されてるじゃないですか。みんな帰っちゃってるのに」
「……青山君だって……」わたしはもう一度青山の顔を見る。やはり笑顔だ。「……いつも遅くまで何してんの?……君、いつも帰るの一番遅いでしょう……?あんなに遅くまで、一体何してんの?そんなに忙しいの?」
「……僕は……」また青山が口ごもる。ぐりっ。
青山の棒がまた、わたしのすい臓の上あたりを捏ねた。「ああんっ!!!」な、なんて声出してるんだわたし。
「す、すいません、痛かったですか?」
「だ、だ、大丈夫………」
「僕は……その……ええと、その……」さらに青山は焦らすように棒の先でわたしのすい臓の上を擽り続けた。「……なんといいますか………」
「……な、な、何よ」
「……いや、川辺さんがいつも遅くまで帰らないから……その……心配でして……ついすることもないのに、残っちゃってたんです。正直に言いますと………ええ、その、それだけです」
「そ、そ、それだけって………」
「……川辺さんのことが心配なんです。働きすぎで身体を壊さないか……」だめだった。
い、一体こいつ、何を考えてるわけ?
ああ、これはマズい。グッとくる。わたしのすい臓から広がった痺れが、あっという間に全身に転移して、耳の中も、鼻の中も熱いほど暖かくなった。目の奥だって同じだ。指先が震える。膝頭がカタカタと音を立てて震える。
気がつくと、目から涙が溢れていた。
鼻水も垂れていた。
信じられない。わたし今、泣いてるんだ。
泣いたのなんかほんと、何年ぶりだろう?「ど、どうしたんですか……青山さん。そ、そんなに痛かったですか?」
青山が心配そうに声を掛ける。
何で泣いてしまったんだろう?
わたしはそのことがものすごく恥かしくなって、慌てて自分の頭を庇うようにして机の上で丸くなった。わたしの背中から青山の棒が離れる。
「……あっ……」わたしは追いすがるように、身体を起こして自分から棒の先端に自分の背中をくっつけた。「……だめだって、もっとしてよ」
「は、はい………」
涙が止まらなかった。ほんとうにどうかしていたと、今となっては思う。
しかし人間、どうかしている最中は自分がどうかしていることに全く気づかないものだ。ある者はその勢いでとんでもない相手と結婚してしまい、一生を棒に振る。ある者は、どう考えても非・現実的な儲け話に載って全財産を失う。ある者は、自分の返済能力も考えずに巨額の借金を背負い込む。
しかし人間にはわからない。いたるところで地獄が口を開けて待っている。 そして、その地獄に足を踏み入れるのは、自分の意思の決定の結果なのだ。
誰のせいにもできない。
「ねえ……」わたしは言った「今晩、空いてる?」
「へ?」青山が意外そうな声を出す。
「君のお部屋で…………もっとしてよ。その………身体のすみずみまで」涙声だった。
わたしは自分でそう言ったことを、誰のせいにするつもりもない。
その時のわたしには、結果を考える思考力がなかった。
<つづく>
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