青ひげ
作:西田三郎
「第4話」
■ 残業
井口はほんとうに会社を辞めてしまった。
わたしは出来るだけ彼女のことを気にしないようにして日々を送ることに心がけた。当然、青山のこともだ。
わたしは忙しいんだ。
それになりにやらなきゃならい事も溜まっている。
こんなに忙しいのに、なんで別に仲も良くない同僚の女の子の無断欠勤なんかが気に掛かったんだろう?なんで様子なんか見に行ったんだろう?だいたい、この業界であんなふうに辞めていく女の子は多い。
去年だって何人辞めた?
白土に大杉にリョー子ちゃん。3人辞めた。そうそう、そういうものなのだ。誰だってイヤになったら直ぐ仕事をやめていく。わたしは辞めないだけ。それだけのことだ。
わたしは机の上で大きく伸びをした。
と、社内に目を回すと、ほとんどの人間が帰ってしまっていることに気づいた。ほとんど、というか……オフィスに居るのはこのわたしだけだ。いつの間にかオフィスはしんと静まりかえっていて、時折ファックスが静かに音を立てるだけ。「…………」時計を見た。何てことだ。もう11時を回っている。
わたしは何故だか妙にうす気味悪い気分になった。
不意に、何故かさきほど頭の中をよぎった、3人の名前のことが思い出された。
白土に、大杉に、リョー子……それに井口。この4人は確か……全員があの青山の近くの席に座っていた子だった。
井口の前にあの席に座っていたのは、確かリョー子だ。あの子とは結構仲が良かった。毎週ジムに通い、海に行くのが好きな、すごく明るい子だったなあ……それが何故か、突然無断欠勤をはじめて……井口みたいに会社を辞めてしまった。
未だに理由はよくわからない。
いや、人が会社をイヤになって辞めることなんかに、大した理由はないはずだ。うかうかしたら、わたしみたいに10時まで残業しなきゃならないような職場なのだ。残業費も出ないし。何も妙なことはない……でも。
大杉に、白土。あの二人も……青山の隣か、もしくは後ろの席に座っていた。時折、彼女たちが青山と親しげに話しているのを目にしたことがある。
だ、だ、だから何よ……?
わたしと何の関係があるわけ?ああもう、ちょっと働きすぎで頭がどうかしてる。
今日は適当なところで仕事を切り上げて帰ろう。明日の朝、ちょっと早めに会社に出てだな……スッキリした頭で仕事をこなせばなんとかなる……。
そう思ってパソコンに向き合おうとした時だった。「……遅くまで大変ですねえ」
いきなり、わたしの背後で誰かが声を掛けた。「ひっ!!!」慌てて振り向く。
いつの間にか、青山がわたしの背後に立っていた。
ネクタイをゆるめ、シャツのそでをまくって……頬にはすでに明日の朝剃るはずの髭がちょぼちょぼと浮き出している。青い髭にふちどられて、青山のあの歪んだ口があった。「あ、あ、青山君?」異様に取り乱している自分が滑稽だった。「……あ、あ、どうも、お、お疲れさま………き、君も残業?」
「ええまあ、その、僕仕事が遅いから……」へへへ、と笑う青山。青山は手に奇妙なものを持っていた。
太い鉛筆のような木の棒である。よく……場末の観光地の土産物屋で売っている極太鉛筆のようなシロモノだった。「……そ、それ何?」わたしの視線はその物体に釘付けになっていた。
「ああ、これですか……これね」青山が自分の顔の前にその棒を翳す「……これ、いいんですよ。これでツボを押すと、肩こりが一瞬にしてスッキリするんです……僕いつもこれ使ってるんですけどね。川辺さん、ちょっとどうですか?……結構お疲れのようだから………試してみません?」
「えっ……そ、そんな、い、いいよ……いいってば」
「まあまあそう言わずに……ほら、机の上にうつ伏せになってください」
「あ、あの、いいって……もう帰るからさ……あっ」ふわり、と青山の手が肩にふれて、大した力を込められたわけではないのにわたしの上半身が机の上に素直に伏せる。
すごくヤバい感じがした……何故なのかはわからない。「……ほら、じっとしててくださいね。あんまり痛くないですから」
「……あ、あんまり痛くしないでね……」な、何言ってんだわたし。
うなじの毛が逆立つのを感じた……背中の筋肉が強張り、思わず事務机の上で太股をすり合わせた。
お、おかしい。これって絶対おかしいって。
<つづく>
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