青ひげ
作:西田三郎
「第3話」

 

■ ほぼ、死んでいる

 4日後、わたしは井口のワンルームのドアの前にいた。
  別に仲がいいわけでも何でもないのに、一向に出社してこない彼女の様子を見に行く役を買って出たのはわたし自身だった
 
  何故、こんな役を自分から引き受けたんだろう?

 自分で自分がよくわからない。

 玄関ブザーを押すときにかなり躊躇した。
  何故だろう?
  なんでわたしが井口なんかと関わりを持たなきゃならないんだろう?
 
  ブザーのボタンの数ミリ前で指を止めて、しばらく固まっていると、わたしの後ろに新聞配達のお兄さんが通り過ぎた。すこしだけびっくりした勢いで、わたしはブザーを押していた。

 ピンポン。

 返事はない。

 しばらく待った。
  隣の部屋の新聞受けに新聞を入れた新聞配達のお兄さんが、またわたしの後ろを通り過ぎていく。
  あたりはしんとしていて、近くの児童公園からは蝉の声がする。
  何も起こらない。返事はない。

 そう、これでいいんだ。ピンポンを押しても返事は無かった。
  このまま帰ったって問題はないはずだ。
  同僚としては十二分に役目を果たした。だいたいこんな暑い中、わざわざ無断欠勤している同僚のためにこの部屋までやってきたんだし。
 
  わたしは指を引っ込めて、そのまま踵を返そうとした。
  そう、わたしと井口は何の関係もない。これでいいんだ。
 
  しかし……何故だか足が動かない。
 
  目の前に井口の部屋の白いブザーのボタンがある。もう一度押さずに帰っても何の問題もないはずだ……井口とわたしは、別に友達でもなんでもない。ブザーを一回鳴らしましたが、返事はありませんでした。それで会社への報告は事足りるはずだ。
 
  でも何故だが立ち去ることができない。

 しばらくドアの前で立ち尽くしていた。
  わんわんと蝉の声が最高潮に頭の中に響く。
 
  と、その時、ドアの向こうでガチャリと鍵が開く音がした。
 
  チェーンロックを掛けたまま、ドアが数センチほど開く。
  部屋の中は真っ暗で…キラリとその中で何かが輝いた。

 「ひっ

 思わず一歩後じさる。
  闇の中で輝いていたのは、ドアの内側に立っている井口の目だったのだ。

 「ええと……」目の下の唇が動いた。「川辺さん……ですよね?」
  「あ、あ、あの……」

 わたしは思わず目を見張った。

 数センチの開かれた闇の中に、げっそりと痩せて青白い井口の顔があった。わたしの知っている井口の顔ではなかった。彼女はどちらかといえば……ふっくらとした健康的な女性だったはずだ。
  今ドアの隙間から覗いているのは……疲れ果て、怯え切り、枯れ果て……まるでミイラのように萎れきった女の顔である。彼女はこの数日間の間に、10歳も歳をとってしまったようにさえ見えた。

 わたしはしばらく彼女のかけるべき言葉を頭の中で捜していた。
  “元気?”というのはどう考えてもヘンだ。彼女は明らかに元気ではない。 
  “大丈夫?”というのもダメ。明らかに彼女は大丈夫ではない。
  “調子どう?”これもやはり今の彼女には……。

 わたしがいろいろと頭の中で言葉を練っていると、先に彼女の方がゆっくりと……まるで機械が軋むような声で話し始めた。
 
  「……ひょっとして……会社に言われてわざわざ来てくださったんですか?」
  「え、ええっと……う、うん、まあね………」無理に愛想笑いを作って答える。「……ど、どうしたの?連絡もなしに3日も休むなんて……井口さんらしくないと思って」
  
  ドアの隙間から覗く目は、猜疑心と神経質でギラギラと輝いている。
  生気を失った彼女の顔の中で、唯一生き生きとしているのはその大きく見開かれた目だけだった。

 「……すみません、勝手しちゃって……ほんと、会社にはご迷惑をお掛けして………皆さん、怒ってるでしょう?」
  「い、いや、そんなことないけど……皆んな、すっごく心配してるよ。ほんと……どうしたの?何かあったの?」
 
  と、ドアの隙間の顔が笑った。
  炎天下の中で、背筋が凍りつく。3日前、青山と話したときに感じたのと同じ悪寒だった。
  これまで25年と、あと数年生きてきたけど……あんなにうす気味悪い笑みは、それこそホラー映画の中くらいでしか見たことがない。

 「……皆んなって………誰がわたしのこと心配してるんですか?」
  「えっ………」
 
  思わず答に窮する。確かに……わたしは彼女のことを心配などしていない。
  「……心配してませんよねえ。誰も。皆んな、わたしのことなんか心配してるはずがないんですよ。そうでしょ?……だって心配してくれてたなら、こんなことには………」パクパクと動く井口の口。まるで精巧なロボットが喋っているようにさえ見えた「……川辺さんだって、そうでしょ?……ひょっとして、わたしの部屋を覗いてみたら、わたしの腐乱死体がひとつ転がってたらどうしよう………そうなったらメンドウくさいなあ、って、そう思いながらわたしの部屋まで来られたんでしょ?……そうでしょ?結局?」
  「あ、あ、あの……」なんなんだ?なんでこんな言われ方をしなくちゃなんないの?「……な、何か………何かあったの?ねえ、そのもし良かったら……お、教えてくんない?……その、わたしで相談に乗れることがあれば……」
  「わたし、会社辞めます」突然、井口が言った。
  「え?」
  「辞めます。そのうち正式に辞表も会社に郵送します」
  「あ、あの……で、でも………」
 
  と、井口がドアを閉めようとする。わたしにそれを止める権利は何一つなかった。
 
  と、その瞬間、ほとんど締まり掛けていたドアがピタリと止まる。部屋の中は真っ暗で、もう井口の顔は見えない。
  井口がポツリと呟いた。
  「あの……川辺さん?………青山さんは………」
  「え?」
  「青山さんは……わたしのこと、心配してました?

 蝉が激しく鳴いている。熱波と反響する蝉の声。
  わたしは何故か倒れそうになった。

 「も、もちろん……すごく心配してたよ」わたしはウソをついた。
  何も言わずに、井口はドアを閉めた。ドアの向こうでチェーンロックを掛けなおす音がする。

 わたしには何の関係もない。何の関係もないけれども……
  青山があなたのことなどまったく気にせず、いつもどおりに『ソリティア』に夢中だった……とほんとうのことを彼女に告げることは、わたしにはできなかった。

 

<つづく>



 
 

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