青ひげ
作:西田三郎
「第1話」
■ 悪寒
2週間前の、確か木曜日だった。
同僚の井口に電話が掛かってきた電話をわたしが取った。
わたしの席から見ると、井口の席に人の気配はない。わたしは伝言をメモすると、井口の席へメモを置きにいった。
井口の席の隣は青山が座っている。
ふと見ると青山は背を丸めてノートパソコンを抱え込むように何かをやっていた。確かめるまでもないが、彼は日中、いつもそんなふうにして「ソリティア」をやっている。
そして夜はこの部署で一番遅くまで会社にいる。
一体、いつ仕事してるんだろう?
まあそれまで、わたしは青山のことをそれほど気にしたこともなかった。
というか、口を効いたのもその日がはじめてだったのかも知れない。「あれ……?」
井口の机はいつも彼女が帰った後と同じ状態で、きれいに整頓され、ノートパソコンは閉じたままになっている。彼女はわたしの3年後輩で、とても几帳面できれい好きな女の子だった。
わたしは熱心にソリティアに打ち込んでいる青山に声を掛けた。
「ええと……青山君?」
「は?」青山がパソコンから顔を上げる。きょろきょろと辺りを見回してから、わたしを見る。「………はい?僕ですか?」
そして意味のないあの笑顔を見せた。
屈託のない笑顔だった……けども、わたしは何故かそのとき、背筋が寒くなるのを感じた。何故なのかはわからない。
たぶん、わたしの中の動物的な勘が働いて……わたしの心に何かを囁いたのだろう。「……うん、あの……今日は井口さんお休み?」
と、青山は井口の席を見て、その時はじめて気がついたように大袈裟に驚いた素振りを見せた。「ああ、ほんとだ。今日はお休みみたいですねえ……どうしたんだろ?」
「……どうしたんだろって………なんか連絡かなんかあった?」わたしは青山に聞いた。「井口さんが休むなんて、なんかすっごく珍しい気がするんだけど………」
「そういえばそうですよねえ……いや、確かにそうです」
また意味もなく青山が笑う。また背筋がぞくっと寒くなる。「……風邪かなんかかな?……なんか聞いてる?」
わたしは自分の二の腕あたりに、鳥肌が立ってることに気づいたけど……そのときは社内に冷房が効きすぎているからだと考えた。
「……かも知れませんねえ……夏風邪って結構怖いですからね」
歯を見せて笑う青山。
やはりぞくり、と悪寒が走る。
何故だろう……?いや、はっきり言って……青山は見ているだけで不快感を抱いてしまうようなタイプの男ではない。
むしろその逆で……少し痩せすぎているのがヘンといえばヘンだが、童顔で、ほがらかで、子供っぽくて……言うなれば性的ないやらしさがまったくにじみ出てこないタイプの男だ。女の子にそれほど縁がありそうにも見えないが、世の中の男をいい男とそうでない男に大別するとするならば、青山はいい男の部類に入るかも知れない。
しかし、かといって目立つ男ではない。
彼は大きな声で話すこともないし、自分から冗談をいうこともない。女の子に馴れ馴れしい態度をとるわけでもなければ、モテるために見てくれに気をつかっているようにも見えない。
彼はいつも半そでのシャツに、薄い色のネクタイ、ベージュのチノクロスのズボンを履いている。はっきいいって、全くオシャレではない。呆れるほど無難なセンスである。毎日同じ服を着て会社に来ているように思える。かといって不潔な感じはまったくせず、いつも小奇麗だ。
頭もマメに散髪しているらしく、伸び放題になっているのを見たことがない。
シャツにはいちおうアイロンも効いている。
ただひとつだけ目立つのは、青々とした髭剃りの跡だ。毛深いほうなのだろうか……?いや、心底どうでもいい事だが。
「どうしたんです?僕の顔に何かついていますか?」
青山がそう言って、わたしははっと我に返った。
青山に指摘されるまで……わたしはどうも知らないうちに青山のことをじろじろと見ていたらしい。「ええっ……あ、ご、ご、ごめん……ちょっとボーっとしちゃって……」
何故かわたしは自分の顔が熱くなるのを感じた。
「大丈夫ですか?……ちょっと顔が赤いようですけど……」青山が心配そうにわたしの顔を上目遣いで覗きこむ。「ひょっとして、川辺さんも風邪じゃないですか……?……川辺さんもお疲れなんじゃあ……毎日遅いみたいですし。気をつけられたほうがいいですよ」
「……あ、あ、そ、そうかもね。あ、あ、ありがとう」な、何をどもってんだ、わたし。
わたしは気を取り直して、青山に向き直った。
青山は笑顔を崩さぬまま、わたしの言葉を待ち受けている。「……ええっと……その、井口さんと青山君、結構仲いいじゃん?いつも会社でもよく話してるしさ。その……井口さんが休むなんて珍しいから……青山君、何か知ってるんじゃないかと思って……」
「僕がですか?」さも以外そうに青山が自分を指差す。
「……う、うん……その……携帯に連絡とかなかった?」
「僕に?」また青山が念を押して聞く。
「……うん、その……ええと、その、お互い携帯番号とか、知ってるんじゃないかと思って………その………」
「川辺さんは井口さんの携帯番号、ご存知じゃないんですか?」と青山。
「……いやその……わたしは知ってるけど………」
「じゃあお電話されてみたらいかがですか?……その、僕は彼女の携帯番号知らないんですよ。向こうにも教えてませんしね……僕、携帯があんまり好きじゃなくて……あんまり人と番号交換したりしないんです」
また前歯を見せて笑う青山。
何なのこいつ。気持ち悪いわ。
いや……その、どこが気持ち悪いのか上手く言えないけど……。「……そ、そう、じゃあ……わたしから携帯に電話してみる。仕事の邪魔してごめんね」
「いいえ。ぜんぜん……またお話してください」青山は笑顔を見せると……(何度目?)、またパソコンに向かい、「ソリティア」の続きを始めた。
わたしは釈然としない思いを抱えながら、自分の席に戻った。
絶対ウソだ。
井口と青山は、デキているに違いない。
わたしはずっとそう思っていた。まあ社内とはいえ、誰が誰と付き合おうと自由だ。だからわたしはそれほど気にもしていなかった……しかしどういうわけか、その日を境に青山のことが頭を離れなくなった。
それほど井口と仲がいいわけでもなかったが……とにかく井口の携帯に電話を入れてみた。
不通だった。そして、その日の夕方ごろに、井口が無断欠勤をしていることを知った。
井口の無断欠勤は、その後3日続いた。
<つづく>
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