愛の這ったあと
ある寝取られ男の記憶の系譜

作:西田三郎




■7  『電話の音で目を覚ますと、女の姿はなかった』


 誰だ、AKB48の『ヘビーローテーション』なんて着メロにしてるダサい奴は。
 
  まどろみの中で悪態をついて、それが自分だったことを思い出して、目を覚ました。
  もう日が落ちていて、灯りの点いていない部屋は薄暗い。わたしはベッドの上で下半身全裸、靴下だけ、上半身はワイシャツを着たまま、という情けない格好である。女の姿はない。家はしんとしていて、遠くでカラスの鳴く声がする。情けない姿と相まって、妙に虚しく、悲しい気分になった。
  電話に出る気にはとてもなれない。

 AKBの着信音が途切れて、ようやく身体を起こす気になった。
  とにかく……携帯を引っつかんでズボンとパンツをかき集め、身につけた。陰毛部分を中心に股の部分全体が、ねばねばとしており、部分的に乾いているのがさらに不快だったが、とりあえずは気にしないことにした。
  3回か……それにしてもいいセックスだった。女はどこかに行ってしまったが、あまり気にならなかった。

  なぜなら、あの女はわたしの妻ではないからだ。
  あの女がどこに行こうと、あの女がどんな気持ちになってようと、知ったこっちゃない。

 ベッドから起きて、大きく伸びをする。腰から下が、心地よい疲労感に包まれていた。意外と気分は悪くなかった。ふと、寝室のキャビネットの上に置かれていた写真立てに目をやる。見覚えのある写真立てで、そこには見覚えのある写真が飾ってあった。3年前、妻と北海道を旅行したときに、札幌の時計台の前で撮影したものだ。確か、避暑目的で8月に訪れたはずだが、思っていた以上に気温が高く、焼け付くような太陽に照らされながら、わたしたちと同じようにその場所を訪れていた別の観光客夫婦に、シャッターを押してもらったのだ。懐かしく、楽しい思い出だ。そして、その気になれば今年の夏にでも再現できるはずだった、楽しい旅行の記憶だった。

 しかし、写真の中でわたしと一緒に……庇の大きな麦わら帽子に手をやって、あふれんばかりの笑顔を見せているのは……やはりあの女だった。今さっき、俺が3回も犯し倒した、あの大柄で巨乳、分厚い唇とちょうどよいくらいの肉のついた長い脚を持った、あの女だった。ショートカットで、少年のようなあどけない笑顔を浮かべている、痩せっぽちで小柄な妻ではなかった。

 もしわたしが普通の男なら、どうしただろうか?
  家中を引っ掻き回して、アルバムを片っ端から引きずり出し、そこに俺の記憶どおりの妻がいるかどうかを確認しようとするだろうか?……パソコンに保存してある(であろう)写真を一枚一枚チェックして、そこにあの女ではなく、わたしが知っている妻がそこにいるはずだと、血眼になって探し出そうとしただろうか?……箪笥やクローゼット、キャビネットを空き巣のようにひっくり返して、そこに妻が身につけていた洋服や下着の思い出を追い求めただろうか……?
 
  それが、いまわたしが置かれている状況に立ったときの、普通の男の正常な反応だろうか。

 わたしにはそうは思えなかった。
  そっちのほうが、ずっといかれている。なぜなら、目の前の写真がわたしの頭がおかしくなったことを、現に証明しているからだ。さっきまでの修羅場……家に帰ったらベッドルームから男と女の獣じみたあえぎ声がして、部屋を覗くと知らない女がセックスしていた……それで男を追い出して、自分のことをわたしの妻だと自己申告する見知らぬ女に欲情して、女を3回も犯した……ことは、たちの悪い悪夢ではない。札幌時計台をバックにした記念写真が、自信満々に、わたしを嘲うかのように、こう言ってるではないか………『いかれてるのは、おまえだ』と。

 それでも股間のネバネバ、ゴワゴワ感が我慢の限界値を超えてきたので、風呂でも浴びるか、と部屋を出た。人気のない家の様子はあまりにも殺風景で、不気味なくらいだった。廊下に出て浴室のある下の階に行こうと思ったら、また俺の携帯が能天気に『逢いたかった〜逢いたかった〜逢いたかった〜イェイ♪』と歌い出した。

 舌打ちをしながら、部屋に戻って電話に出た。

 「あ、もしもし?セックス中毒の種馬?」底抜けに明るい女の声だった。「元気にしてる?
  「………」もちろん、この女の声にも覚えがない。俺はしばらく黙っていた。
  「……どしたの?……元気ないの?おとといはメチャ、元気だったクセに。おととい、メチャクチャ、すごかったよ。超スゴかったよ。あんなに固いの、はじめてだったよ。ああん、思いだしただけで濡れちゃーう

 電話の向こうで、女がけらけらと笑った。ちょっと酒が入っているらしい。
  しかし、やはりわたしはこの女のことを全く知らない。
  ちらり、と携帯電話の着信表示を見た。『ミドリカワ産業』となっていた。

  「……ああ……」わたしは適当に相槌を打った。いつものことだ。それは昨日までの俺と同じだ。「……そっちは元気?」
  「飲んでまーす!」女が能天気に応える。
  女の声の向こうに、居酒屋らしいガヤガヤという喧騒、『一番さん生一丁入りました!』という声が響いた。    「……元気そうだな……ところで………」“君はだれだ”という言葉を飲み込む。「……誰と飲んでるの?」
  「気になるぅ?気になるぅ?聞きたい?き・き・たぁーーーい??」クスクスと笑う女。かなり酔っている。「……あんたのヤリ専トモダチはぁ、いまひとりで飲んでまぁーーーーーす!!」
  「はあ」下品な女だ。「……どこで?」
  「……どこでって、『きたむら』に決まってんじゃーん??どしたの?ひょっとしてアルツ?ボケた?

 ボケたどころではない。わたしは、君のこともまったく知らない。
  しかし……これまた奇妙なことだが『きたむら』という居酒屋のことは知っていた。知っているもなにも、会社の最寄り駅の付近にある、というか全国のどこの駅の近くにもあるチェーン展開の安い居酒屋である。

 「……いい調子だね。かなり飲んでんの?」出来るだけ不自然にならないよう、心がけながらしゃべった。「……この前から、調子はどう?変わりない?」
  「……スケベ」おんなが言った「スケベ!スケベ!スケベ!どスケベ!まだ挟まってるみたいだよ!!」
  「……それは……良かった」なんともいえない相槌だ。
  「ああん、ムズムズくるよう………もう、あんたにされたやーーーーーらしいこと、思い出しちゃったじゃーん!!……ねえ、このスケベ。ひょっとして、今夜ヒマ?……仕事、もう終わった?……会わない?……会えない?……どっち??」
 
  わたしは腕時計を見た。7時過ぎ。
  まあ、定時は過ぎていた。いつも会社を上がる時間までには、かなり早かった。でもまあ……今日は特に予定もない。明日は……確か土曜だ。この家にいま、わたしの妻だと言い張っていたあの女はもういない。わたしの記憶のなかにいる妻もいない。誰もいない。わたしはひとりだった。
  行かない理由が思い浮かばない。

  「……そうだな……あと1時間ほどで仕事終わるからさ、そこで待っててよ。今日は大丈夫?」
  「……大丈夫って何があ……?……また中で出したいってのお??」

 とことん下品な女らしい。いや、いいだろう。信じられないが、それまで停滞してたい全身の血が体内を巡り始めた。脳下垂体が全身に指令を下したのだろう。むずむずする感覚が、背筋から尾てい骨に駆け下りて、なんらかの電気信号がからっぽの陰膿に精子の追加生産を命じたようだ。べとべとの粘液のなかで巻貝のようにうずくまっていた陰茎が、ぴくり、と動くのがわかった。

 わたしは電話を切り……軽くシャワーを浴びることに決め、鼻歌を歌いながら軽い足取りで階段を降りた。
 暢気すぎるだろうか?……知ったことか。

 

 

 

 

 

 

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