愛の這ったあと
ある寝取られ男の記憶の系譜作:西田三郎
■4 『ベッドに上で泣いていたのは、知らない女だった』
「きゃあっっ!!」シーツの下から出てきたのは、わたしが知っている妻の裸体とはまるで違っていた。
女の肌は俺の知っている妻の身体よりも、少しだけ日に焼けていた。
うっすらと、ビキニらしい水着の後が見えて、白い部分は全体的にピンクに上気していた。
全身には許せる範囲でやわらかそうな脂肪が載っていた。でも肌は滑らかだった。うっすらと全体が、汗でぬめり、光沢がついている。その身体が、胎児のようにベッドの上で丸まり、豊かな二の腕が乳房を抑え付けるように庇っていた。でも庇いきれていない。 隠せている部分はほんの一部分で、ほとんどが2本の腕の交差から溢れ出している。女の顔を見ることはできなかった。わき腹から豊かな腰に続くラインを、わたしはほとんど自動的に目で追っていた。尻も見事だった。膨れて肉がつまり、はちきれそうになっている尻だった。上になっている左脚の太ももをしっかりと閉じて、陰毛をわたしの視線から隠している。でもそれもまた、乳房と同じように隠しきれていない。今はベッドの下、床の上でマヌケのように尻餅をついて足を投げ出している男の、しなびた陰茎の上の白髪まじりの陰毛と同じく……固く閉じた腿の間から見える、結構豊かな陰毛は、同じようにねばつく濁った粘液で、絡まり、下腹に貼り付いていた。わたしはさっきまでの男……この醜い間男と同じように、ベッドで膝立ちになって女の肢体を眺めていた。
驚きも戸惑いも、もちろん混乱もあった。
この豊満な女は一体、誰なんだ。
それと同時に、湯気が立っているかのようなあまりにも豊かな女の身体が息づくのを目にして、欲情すら感じていた。ああ、今わたしが目にしていることが現実なら、誰だってそうなっただろう。あんただったらどうする?
女が背けていた顔を上げた。くしゃくしゃになったセミロングの髪が顔に垂れ下がり、一部が貼り付いて女の右目を隠していた。左目は、くっきりとした二重で、鼻は小さい……鼻は、わたしの記憶にある妻とほぼ同じだ……そして、その下でぽってりとしたみずみずしい唇が震えていた。これは妻の唇とは、まるで違っている。
女の大きな目には、明らかな怯えがあった。そして、哀しみがあった。当然のように、涙もあった。
泣きはらした目は、少し腫れているようだった「よー……ちゃん………」女が囁くように言った。
こればかりは忘れていたわけではなかったが、過去にわたしの名前がそんなふうに呼ばれたこともあった。記憶の遥か向こうにいる、何人かの女から。でも、妻はわたしのことをそんなふうには呼ばなかった。はっきりと、わたしのことを「洋二くん」と呼んだ。でも、女はもう一度、さっきより少し大きな声で言った。
「よう…ちゃん?」
「………君は………」(誰だ)という言葉を、俺はなんとか飲み込んだ。ここまでわけのわからない状況なのだ。もう何もかもがわたしの理解値を超えていた。
「……ようちゃん…………ホントなの?」その女がぐすん、と鼻水を飲み込んで言った。「……このヒトの言ってること………ホントなの?……ねえ、ほんとに、このヒトの奥さん、ようちゃんがヤッちゃったの?」
「………何だって?」だめだ、もうカンベンしてほしい。これ以上わけのわからないことは。
「そのとおりだぜ!!!」ベッドの下から声がした。床の上の男は立ち上がり、なんとかトランクスを履こうとしているところだった。
「……ああ、こいつだ!」男は、わたしにではなくベッドの上の女に言っているようだった「……そうさ!こいつが俺の女房を、メチャクチャにしやがったんだ!!ヤりまくって、ボロボロにして、飽きたら捨てやがったんだ!……な、言ったろ?奥さん??なあ、これでこいつとわたしは、アイコなんだよアイコ!!!ギャハハハ!!」
「よーちゃん……よーちゃん、そうなの?……このヒトの言ってること、ホントなの?」
「………わけがわからない。まじでわけがわからんぞ」「わからねえだと???この恥知らず!!!テメエがしたことがわからないだと??……あんた、どこまで人間が腐ってんだ?……あんたには、罪の意識ってもんはないのかよ???」
「罪の意識だって?……はあ?……」頭に血が上った。わけがわからないが、一瞬で怒りが沸点に達した「……あんたはおれのいない間に、ウチの部屋でセックスしてたわけだよな。この女と!!!」
「こっ………」ベッドの上の女が言った「この女??」
「そうだよ、この淫売だよ」男がそこではじめて、醜い顎と腐ったタラコのような唇を歪ませて、ぞっとするような笑みを作った「……ああ、この淫売が、おれに突きまくられて何回、イッたと思う?……ああ、ヨカったぜ!!……最高のメス犬だったぜ!!……ネジを巻いたら悦んでむしゃぶりついてきやがった。ああ、あんたの女房だよ!!この淫売を、イかしまくってやったぜ!!あんたはわたしの女房を、何回イかせたんだ??」男はわめきながら、なんとかチノクロスのズボンを履き、ランニングを着ていた。案外、器用な男だ。ますますそんなところがイラついた。
「イッてないっっ!!」女が叫んだ「あんたなんかでイッたわけないじゃん!!」
女がベッドの上に立ち上がった。身長が高い。俺の記憶にある妻より、祐に10センチは高い。見事なまでに立派な、堂々とした体つきだった。勇ましくさえ思える、中身の詰まったロケット型の乳は、慌てて服を着てる男に向けて発射態勢に入っているかのようだった。相変わらず粘液でくしゃくしゃに濡れている陰毛も丸出しだった。怒りがさっと引いて、また欲情がわたしの心に過ぎる。どうなってんだ、わたしは。
「ぜんぜん良くなかったよ!!……ってかホント、ぜんっっぜん感じなかったよ!!!」
「良くなかっただああ??」男がシャツのボタンを停めながら言う「……泣いて俺に抱きついてきたのは誰だったっけな!!わたしのズボンのジッパーを降ろして、むしゃぶりついてきたのはアンタだったろ??……ええ?奥さんよ!!あんた、このダンナに愛想を尽かしてヤケになってたじゃねーか!!……俺に、『もうメチャクチャにして』つったのはあんただろーがよ!!……それに、あんだけ派手にイきまくっててよく言うぜ!!」
「帰れ!!」妻が、枕を拾い上げて、砲丸投げ選手の動作で男に投げつけた。
「痛てっ!!」男がもろに枕を顔面に食らう「……ちくしょう!!何しやがるこの淫売!!」もう耐え切れなかった。わたしはベッドから立ち上がると、男に歩み寄った。
「なんだ?やる気かよ???」男がわたしに掴みかかろうとする。
わたしはすべての力を込めて、両手で男の胸を突いた。男はあっけないほど、ごろん、と仰向けに床に倒れ、一回転して開け放したドアから廊下に転がり出た。
「ああっ……痛っっ!!」傘を拾い上げて、先を男に向けて持ちながら、男のケツを蹴っ飛ばした。階段のほうに。また男がおもしろいくらいにコロン、と転がる。
「やめろって!!……暴力はよせ!!」たわけたことを抜かす男にますますイライラ来た。さらに男を2階ほど蹴って転がし、階段から蹴落とした。
「ギャッ!!」階段の中ほどまで男がゴロゴロと転がり落ちて、玄関に仰向けに倒れた。
「………帰れ!!!出て失せろ!!!!」わたしは金属的な声で叫んでいた。
「カバンだ!!」男がなんとか半身を起こして叫んだ「カバンを返せ!!部屋だ!!!」わたしはいらいらしながら、部屋に戻った。女は……ベッドの上でぺたんと座り込んで、また泣いていた。
とりあえず、この女のことは、あの男を片付けてからだ。部屋の脇に、死んだ犬のような型崩れしたナイロンのショルダーバッグがあった。俺はそれを引っつかむと、右手にカバン、左手に傘を持ったまま、階段までどしどしと歩いた。男はなんとかたたきで靴を履こうとしていいた。わたしはフルスイングで、男にその安物のカバンを投げつけた。カバンは男の後頭部にジャストミートした。
「いてっ!!畜生!!…………憶えれやがれ!!これで終わりじゃねえからな!!」
男はヤクザ映画のファンかなんかなのだろうか。ドスの効いた口調で、どうやらわたしを脅そうとしているらしい。ぜんぜん板についていなかった。わたしは槍投げ選手のスイングで、男に傘を投げつけた。傘はミサイルみたいに男の首筋を狙って一直線に飛んでいった……が、それてドアを直撃した。「ひえっっ!!!」………「て、てめえ、なんてことしやがんだ!!……こんなもんが当たって、死んだらどーすんだ!!」
「うるせえ!!」叫んでわたしは階段を駆け下りた「とっとと失せないとマジで殺すぞ!!」
「ちくしょう!!」男はバタバタと……左足の靴の紐も結ばずに家から飛び出していった。
急に、家が静かになった。
わたしは玄関のたたきに腰を下ろして、頭の中を整理しようとした………しかし、何ひとつまともな考えは浮かんでこない。わけがわからないことが多すぎる。
………まああの醜い間男は、とりあえず撃退した。というか、2Fのベッドにいるあの女は、明らかにわたしの妻ではない。………そうだ……とりあえず一服して落ち着いてから……あの女に話を聞こう。それしかない。
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