愛の這ったあと
ある寝取られ男の記憶の系譜作:西田三郎
■2 『家に帰ると、家の前に知らない車が停まっていた』
とりあえず、家に向かうことにした。
電車に降りるなり、会社に電話した。電話に出たアルバイトの女の子……遠藤くんというブス……の声も、上司……佐々木という当たり障りのないことしか言わない男……の声も妙に新鮮だった。階段に落ちて一瞬、意識を失った旨を伝え、今日はそのまま帰らせてほしい、と告げたところ、上司の佐々木が妙なことを言い出した。「おまえ……さっきおれに体調が悪いから早退させてくれ、つって会社を出たばかりじゃないか?……大丈夫か?」
「え?……僕がですか?」一切憶えていない。「……体調が悪い、って?」
「………いや、マジで病院行ったほうがいいぞ。明日、病院行け。休んでいいから……」
「え、そうですか……」まあ、そのほうがいいのかも知れない。「じゃあそうさせてもらいます」
「……まあ、くれぐれも大事にな。ほんじゃ」電話を切った後も、奇妙な気分だった。自宅の最寄り駅の駅前風景のなかに立っているけれど、何やらはじめて来た場所のような気がする。時刻は4時ちょっと前。いつも平日のこんな時間に、この駅前の風景を見ることがないからだろうか?……駅前広場の時計台の前で、痴呆老人のように突っ立っていると、学校帰りらしい女子高校生たちが4、5人、キャッキャと楽しそうに笑いながらわたしの脇を通り過ぎた。
俺はほぼ自動的に彼女らを目で追っていた。彼女らの紺色のスカートと、黒い靴下の間にある数本の白い肉をぼんやりと見た。いや、まさにオッサン臭いったらない。しかし目を離すことができなかった。ひらひらとスカートの布が揺れ、健康な筋肉が緊張したり弛緩したりするのを眺めた。彼女らが自分たちの脚を見つめる中年男……このわたしだ……の存在に気づいたようで、怪訝そうな、いやもうむしろ嫌悪感を露にした視線で俺の視線を牽制した。健康そうな膝の裏も、俺に対する嫌悪感も露わだった。わたしは下半身にじん、と甘い疼きを覚えて、家に向けて歩き出した。
さっき、駅のホームでわたしのことを気遣ってくれた女子大生に対する劣情といい、どうも今日のわたしの性的センサーは感度が良すぎるらしい。これも頭を打ったせいだろうか?いや、できればそう思いたい。事実、わたしには妻がいて、充実したセックスライフも……あれ、待てよ。
歩きながら、奇妙なことに気づいた。
わたしは今朝……たぶん自分の家を出て、会社に行ったはずだ。
ゆうべ徹夜をしたのでもなければ……いや、どうだったっけ?……わたしはシャツの衿を自分でつまんで首と身体の間に隙間を作り、自分の体臭を嗅いでみた。うん、確かに。いい香りがするわけではないが、徹夜明け独特の、あの死に絶えた細胞の脂っこい匂いはしない。ということは、今朝わたしは、家から会社に出社したはずだ。 でも、不思議なことに……今朝、どんなふうに出社したのか、今朝、妻の様子がどんなふうだったのか、まるきり思い出せない。機嫌が良かったのか?……それとも悪かったのか?……妻はわたしにどんなふうに声をかけたのか?……あるいはわたしはどんなふうに声をかけて出て行ったのか?……だめだ。さっぱり思い出せない。
というか、最近妻とどんな話をしたっけ……?……というか、最後に妻とセックスしたのはいつだっけ?……まるで思い出せないのだ。天気が良かった。家に向かう道すがら、我が子を保育園に迎えに出向く若い2人の母親たちとすれ違った。
2人とも少し流行遅れのローライズのスキニーパンツに、豊かな尻をギチギチに詰め込んで、それを左右に揺らして歩いている。彼女たちの夫は、おそらく夜はそれぞれの尻をしっかりと掴み、バックから突きまくるのだろう。彼女たちが迎えにいく子ども達も、おそらくバックからのファックでこしらえたに違いない。
いや、そんなことは心底どうでもいい。
問題は、俺だ。いったい、妻と最後にセックスしたのはいつだろうか……?……そんなにはるかに昔のことではないはずだ。わたし達夫婦は、セックスレスではない。定期的に……それなりに夫婦お互いにセックスに喜びを見出しながら(どちらかといえば、わたしも妻もかなり好きだった)少なくとも週末にはセックスに取り組んでいたはずだ。わたしたちにはまだ子供はいない。作る気も、予定もない。だから、それなりに楽しいセックスを……いやいや、おかしい。まるで思い出せない。最近、妻とどんなセックスをしたのか。
場所はどこだったのか?寝室だったか?それともリビングのソファだったか?台所だったか?
わたしはちゃんと、妻の服を脱がせただろうか?それとも下半身だけ裸にしたんだっけ?もっと問題があった。思い出そうとすればするほど、頭に靄が掛かって思考の視界が悪くなる。
妻の顔は思い出すことができる。
それなのに、セックスのときの妻がどんなふうだったのか、これがまるで思い出せないのだ。
妻は非常にノーブルな顔立ちをした女だ。
これといった特徴は特に無い。飛び切りの美人だとは言わないが、世の中の女を不細工と美人で単純に分けるとするなら、美人の側にカテゴライズしていい部類の顔だ。一重まぶたに薄い眉、小さな鼻に薄くも厚くもない唇。目だったほくろもなければ、受け口だったり極端に歯並びが悪かったりもしない。いったいあの顔のどこを好きになったのか、と問われれば正直、困るのだが、笑うとまるで幼女のように無邪気であどけないところに惹かれたんだった。少年のように短くカットした髪と、その笑顔がとても似合っていた。
確かそのはずだ。ああ、妻の顔は覚えている。そして姿かたちも、しっかりと憶えている。
妻の身長は160センチ前後。細身ですらりとしている。姿勢がいい。中学・高校時代は陸上部に所属して短距離をやっていたので、伸びやかで健康的な長い手脚がすてきだ。自分の妻に関してそんなふうに言うのはかなり正気の沙汰ではないかも知れないが、それは今のわたしの正直な気持ちだ。
おっぱいはあまりない。まあ、ぜんぜん無いわけでもない。手のひらに少し余る程度で、わたしの手は小さい。少し肋骨が浮いたわき腹をくすぐってやると、わたしのあの大好きな子供みたいな笑顔でむずがった。それにわたしはいつも……アホだと思わないでくれ……メチャクチャ興奮させられた。
細い身体を裏返して、四つんばいにさせると、小さな少年のような尻が、くん、と立ち上がる。さっきすれちがった母親たちとは、まったく違う生き物のような尻が。この尻から子供が産まれてくることがあるなんて、いまだに信じられない。ああ、わたしは妻をバックで責めるのが好きだった。たわわな尻をわしづかみにして突きたてるのもいいかも知れないが、小さな尻に、尾てい骨の存在を感じながらゆっくりと腰を動かすことの悦びを知らない男たちは……実に不幸だ。そうするといつも、妻はくすくす笑いのような声で控えめに喘いだ。
いつものようにわたしが意地悪をして、あえて腰の動きをゆっくりさせたり、止めたりすると……いつも肩越しにわたしを睨んで、ふくれっ面をした。何も言わずに。頬と目の下のあたりを、うっすらと赤く染めながら。そうだ。そのはずだ。
しかし、今のわたしには……そんなふうに妻とセックスしたのは一体いつのことだったのか、さっぱり思い出せないのだ。おかしい。これは、根本的におかしい。家が近づいてきた。
このあたりは新興住宅街で、まだ空き地が多い。すぐそこなのに、空き地だらけの風景に晴れた青い空というがらんとした風景の中、なにか家が、ものすごく遠いもののように感じられた。
斉藤和義の『歩いて帰ろ 』をハミングした。
わたしはまったくそのまんま、捻りもなにもないつまらない男だ。妻とセックスしたのはいつだ?……そのとき、妻とはいったい、どんな体位でヤったんだ?……どんな愛撫をしたんだ?……俺は妻にどんないやらしいことを言った?……妻はどんな声で喘いだんだっけ?……どんなことを、どんな恥ずかしいことを言わせたんだっけ?……だめだ、まったく思い出せない。
家はすぐそこだった。あと5メートル、というところ。
そこでわたしの脚はピタリと停まって、地面に張り付いた。駅前で女子高生たちの脚に見とれていたときと同じ、痴呆老人に逆戻りだ。理由はふたつあった。
ひとつは、家の前に見覚えの無い車が一台……スカイブルーの“ラパン”……停まっていたこと。
もうひとつは……妻の名前を思い出せないことに気づいたことだ。
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