愛の這ったあと
ある寝取られ男の記憶の系譜

作:西田三郎




■18 【終章】 『わたしは、狂ってはいない。
 

 「はい、チーズ」

 人のよさそうな若い男が、わたしのデジタルカメラのシャッターを押してくれた。
 記憶の中と同じように、8月の札幌はかなり暑かった。
  多くの人の心の中にある札幌の気候とは、まるで違っていた。

 「どうもありがとうございます」笑顔で若い男からカメラを受け取る。
  「ありがとう」隣で、みどりがわたしに続いた。

  明るい日差しの中でデジカメの液晶を見るのは困難だったが、わたしはその中に、時計台をバックに並んで写るわたしたち二人の姿を確認した。みどりは大きな 庇をつけた麦藁帽子を被っている。その麦わら帽子は、先ほどわたしが選んで購入したものだった。庇に手をやるポーズも、わたしがつけたものだ。

 「じゃ、これで」

 若い男の横には、まるで少女のような日焼けした女がいた。たぶん、夫婦なのだろう。二人は暑い中、手をつないで人込みの中に去っていった。わたしは液晶の中の、わたしとみどりをもう一度確認した。

  「よし」思わず、口にしている。最近の口癖だった。
  「“よし”って何よ」みどりが笑いながら言う。
  「よし、次はどさんこの馬車に乗るぞ」わたしはみどりの手を取り、引っ張った。
  「……ちょっと待ってよ。もうちょっとのんびりしようよ」みどりがまた笑っている。「何、アセってんの?」
 
  事実、わたしは焦っていた。
  札幌旅行はわたしの提案だった。あれから半年が経ち、みどりとは何事もなかったかのように過ごしている。 それもまた奇跡だっ た。異常だと思われるかも知れないが、わたしたちはあの家で暮らしている。かつては自分たちの家ではなかった家で。造りも、窓から見える景色も、まったく 同じだった。ほんの少し、自分たちの生活に必要なものを移動させて……その際には、あの水色のラパンを利用させてもらった……あとは少しだけ部屋を模様替 えした。ラパンはもともとわたしたちの家だったはずの家の前に停めておいた。
 
  この家は、何からなにまでもともと住んでいた家とそっくりだった。
  相変わらず寝室の窓からは、緑色の屋根の二階建ての家が見える
 
  あの夜、みどりを拘束していた台はまだ部屋にある。時折、あの拘束台にみどりを縛り付けるときもある。
  みどりはそうすると興奮した。一度、わたしが逆に拘束されてみたことがあるが、結構悪くはなかった。
 
  みどりとはさまざまな場所に出かけた。
  わたしの記憶の中に残っている、みどりとの思い出の場所の数々に。
  近所の公園にも自転車で出かけたし、美術館や映画館にも行った。できるだけ訪れたことのある店で食事をした。そして休みを取って、北海道にも出かけた。みどりは戸惑っているようだった。いったい何で、わたしがこんなに焦っているのか、理解できない様子だ。
 
  わたしだって、自分が何故こんなに焦っているのかわからない。
  3泊4日の札幌旅行は、予定がぎっしりだった。
  みどりは疲れた様子だったが、わたしは楽しむことに貪欲だった。

 まるで這いずりまわっているような気分だ。
 
 みどりと夫婦として過ごした、思い出のあとを。
 



 仕事も順調だった。



  会社では、みどりが不在の間にセックスをした女たち……タチバナをはじめとする数々の女たち……と顔を合わせたが、奇妙なことに何も気まずさはなかった。 タチバナなど、来年結婚する、ということを嬉しそうにわたしに報告してくれた。わたしはおめでとう、と言ったが、手にはまだこの女の尻を盛大に叩いたときの感覚が残っている。この女の内壁のしまり具合も、あえぎ声も、そうしたことはちゃんと記憶に残っている。しかし、タチバナも、ほかの女たちも……わたしに大して性的なアプローチをしてくるものは誰もいなかった。

  まるで、彼女たちの記憶からわたしそのものが消えてしまったようだ。
  あるいは、そうでなくてもそのように振舞っているか。

  北海道旅行からさらに半年が経って、わたしは会社にいた。気持ちのいい、晴れた午後だった。
  タチバナは寿退職して、あのブサイクなアルバイトの遠藤も辞め、今はリスのような顔をした、かわいらしいアルバイト(まだ23歳だという……23歳か)が職場にいる。彼女は電話に出るのが早かった。
  わたしへの外線を回してくれたのは彼女だった。

 「もしもし……変わりました」わたしは彼女が回してくれた外線に出た。

  「……うふふふ」聞き覚えのある声だった。いや、忘れられない声だった。「げんきい〜??
  「あっ……」あの女だ。あのいかれた女だ。名前は聞いていない。「……君か?」
  「……最近、奥さんとうまくいってる〜?……セックス充実してんだ。良かったねえ〜??」
  「……おかげ様で……」当たり障りのない返事をした。「……君のほうは、調子どう?」
  「……あんたのちんぽが恋しいよ」女の声のトーンが、少し落ちた。
  「ほんと?」思わず、声に喜びを出してしまった。
  「……うっそー」女がげらげらと笑う。「新しいちんぽ、見つけたから。もっと素直でかわいいちんぽだよ」
  「………ふーん」わたしはオフィスチェアに背を投げ出して、声のトーンを下げて言った「……あいからわずみたいだな。このいやらしいメス犬め」
  「……かわいいまんこも見つけたよ」と女。今、一緒にいるから代わるね」

 と、むこうで受話器が誰かに渡された。

  「……ひさしぶり。元気?」……これも聞き覚えのある女の声だ。「よーちゃん、変わりはない?」
  「……ああ……君は……」わたしは女の顔より先に、女の豊かな身体の乗り心地を思い出した。「ぼくの自称、“奥さん”だっけ?……あんときは悪かったな。3回も中出ししちゃって
  「……ううん。すっごく良かったよ」女の息がはっ、と止まる「……ちょっと、電話中にやめてよ……あんっ
  「……楽しそうだな。何されてんの?」わたしは同窓会の呼び出しでも受けているような気分になっていた。
  「……手で……指でいたずらされてんの。あの人に。……だと思う?」
  「まだ、ほかに誰かいるの?そっちに?」受話器を首と肩に挟んで、鼻の頭を?いた。
  「……うん、ちょっと、代わるね………ああうんっ………」
 
  しばらく、電話の向こうであのいかれた女の笑い声、そして、あの“自称・妻”のあえぎ声が続いた。
  まったく。こっちは職場なんだから、こういうのは勘弁してほしい。勃起してきちゃうじゃないか。

 「もしもし……ご無沙汰です。ご主人」あの男だった。あの頭の薄い、腹の突き出た男。わたしの目の前で、溶けて無くなった男。「いやーあ……いま、入れたとこです。あんたの奥さんに」
 
  男が電話口を、わたしの“自称・妻”の口元に差し出したらしい。
 
  「……やんっ……趣味わるっ………あっ………ああんっ……大きいっ……」
  あのいかれた女の笑い声。パンパンと、肉がぶつかる音。

 「……どうです?奥さん、よがり狂ってますよ……まったくはしたない奥さんですねえ」男が荒い息とともに電話口に戻る「……やっぱり奥さんは、わたしと身体の相性がいいみたいだなあ……」
  「……いや、その人、僕の奥さんじゃないですから」わたしは笑いながら答えた。「あんたの奥さんでしょ?…その人。だから身体の相性が合うのも当然でしょう。……ところで、いったいいつ、液体から固体に戻ったんです??……まあいいや。戻れて良かったですね……これで万事めでたしめでたしじゃないですか」
  「……じゃあ、こっちはどうです?」と男。また、電話口から男の声が遠ざかる。

 「んんんああっ……はいっちゃっ……った……けっこう……けっこうキテるよ……コレ」
  いかれた女の声だった。今度は、あの女に入れているらしい。
  「……どうです?ほら。このお嬢さんもなかなかいいですねえ……このしなやかな身体。バックから突くと、ほら、腰に翼の刺青が見える………わはは、こりゃいいや。突いてやると、まるで羽ばたいてるみたいですよ!!」
  「……楽しそうでなによりです。……で、どんな御用で?」
  「……おっ……」男が一瞬、声を詰まらせた。女に締め付けられたんだろう。「お招きしているんですよ」
  「お招き?」
  「今、わたしたちがどこに居ると思います?………」

 聞かなくてもわかった。わたしたちの家から見える……緑の屋根の2階建ての部屋の、寝室だ。

  「……せっかくだけど……今はそれなりに幸せですので」
  「本当ですかな?………はっはっ……」男が言った。「あんたは今のわたしより、幸せですかな?……本当に、わたしより幸せですか?……あんたは、そう思い込もうとしてるだけじゃないんですかな?……はっはっ……ほんとうは、帰ってきたいんでしょう?……わたしたちのところへ」
  「……あんたたちのところへ?」わたしはデスクチェアの背もたれから身体を離した。
 
  いつの間にか、電話口の向こうはいかれた女に交代していた。

 「あっあっ……あっ……ねえ、あんた、帰ってきなよ……ねえ、つまんないでしょ?……つまんないでしょ?……あんた、ちんこにちゃんと正直に生きてる?……ねえ、つまんないでしょ?……こっちに来なよ……」
  「………うるせえ。このまんこ脳が」わたしは笑いながら言った。
  「もう一回、あの駅の階段で足をすべらしなよ……ねえ、悪いこと言わないって……また、あたしとハメまくろうよ……こっちにいるあんたのおっぱいの大きな奥さんと、このハゲと一緒に楽しくやろうよ……ってか、気取ってんじゃねーよ!!!……あんたなんか、ただのちんぽじゃん!!!!」
  「切るよ」

  わたしは電話を切った。
  そして、そのままぼんやりとテーブルに頬杖をついていた。時計を見上げると、午後3時15分前。
  定時まで、まだあと3時間以上ある。……とてもじゃないが、まじめに仕事をする気にはなれなかった。

  わたしは上司の佐々木……当たり障りのないことしか言わない男……に体調が悪いとウソをつき、早退した。 会社を出ると、ウソをついたことのバチが当たっ たからか、気分が悪くなってきた。フラフラとしたおぼつかない足取りで、最寄の地下鉄駅まで歩く。そして改札をくぐって、下りの階段の前に立った。
 
  一歩足を踏み出す前に、腕時計を見た……ちょうど、3時を過ぎたところだった。
 
  ……ちょっと出来すぎてないか?
  ……いや、大丈夫だ。まだまだ消化し切れてない矛盾がたくさんある。

 わたしはまだ、狂ってはいない。(了)

2011.8.7

 

 

 面白かったらポチっと↓押してね!

 

BACK

TOP