2×2 作:西田三郎


■地獄へようこそ


 
「さあ、着いたで。おつかれさん」男が言ったので、直紀は我に返った。
 山の近くであることは確かだ。木々が日光を遮断して、昼だというのに薄暗いその斜面に、ぽつんとその一軒家はあった。白い壁の日本風の平屋。雨戸が閉められていて、人の生活の気配はない。あまり大きくないので、物置かなにかのようだ。家の横には、恐らくこの珍妙なワゴンを仕舞うのであろう、錆色のトタンの車庫があった。
 直紀は千春の方を見た。恐怖からか直紀に対する怒りからか、顔が引きつっている
 ガラリと、後部座席のスライディングドアが開けられた。抜けた前歯を見せて、車の外から女が笑い欠けた。
「ほら、降りて、降りて」
 ドア側に座っていた千春は、出来るだけ感情を表情に表さないようにつとめている様子で、無言で車から降りた。続いて、直紀も降りる。
「どや、ええとこやろ?」男の方が聞いた。
「はあ」直紀は何故かまた愛想笑いをした。愛想笑いは物心ついたときからの癖だった。
  辺り一面に雑草が生い茂っている。
  遠くで鳥の鳴く声が聞こえる以外は静寂そのものだった。
  直紀は胃の底がキリキリと痛むのを感じた。全身を後悔が支配していた。
 僕は本当に馬鹿だ。自分からこんな危険に飛び込むなんて。
 こんな人里離れたところでは、助けを呼んでも誰も来てくれやしない。この夫婦(?)が変態の殺人狂でないないという保証がどこにある?千春と一緒にここで殺されて埋められてしまっても誰にも見つけだせやしない。土の中で骨になっている自分と千春の姿が浮かんだ。
 しかしもう遅い。ここから走って逃げても帰り道すらわからないのだ。
 「すごいとこやろ?でもなあ、自分らが住んでる辺りも、昔は家なんて一軒も立ってへんかったんやで。たまには自然もええやろ。君らみたいな街育ちには」男がヘラヘラ笑いながら言う。
 「ほら、暑いやろ。はよ中に入って」女が家のドアに取り付けられた南京錠を外しながら言った。
  直紀は千春の方を見た。千春の目からもありありと不安恐怖を感じた。しかし、直紀と目が合った瞬間、千春の目に怒りが戻った。千春は直紀からぷい、と視線を逸らせると、そのまま女の後に続いた。千春は少々ヤケクソのようだ。直紀は千春のようにヤケクソにはなれない。このまま千春をを見捨て自分だけ逃げようか?そう思ったが、直紀の背後には男がニヤニヤ笑って立っていた。
 「ほら、遠慮せんと上がれよ」男は言った。
 仕方なく直紀は千春に続いた。
 
 家の中は薄暗かった。広い土間を上がると、長い板間の廊下が続いている。廊下の突き当たると、6畳くらいの畳の居間に出た。
 雨戸を閉め切った家の中には光はまったく入ってこない。中はひんやりとしており、静まり返っていた。家の中も、先ほど降りた車の中によく似ていた。至る所に恐らく女の方が描いたのであろう、極彩色の油絵が飾ってある。部屋の床はビールの缶ゴミが散乱している。
 そして車の中と同じ、真新しい畳のような匂いがした。
「まあ、散らかってるけど、そのへんに座れや。コイツ、掃除が苦手なんや」男が言った。
「そんなん言うんやったら、アンタもたまに掃除したらどやねんな」女がそう言って、直紀と千春の足下に散乱していたゴミを足で払いのけた。「まあ、そのへんに座って」
 服が汚れそうな有様だったが、直紀と千春はその場に腰を下ろした。
 夫婦も向かい合って腰を下ろす。二人揃って、直紀と千春を舐めるように眺めた。
「ほんま可愛らしいカップルやな。わしらにもこんな頃があったんかなあ…なあ?」と男。
「彼氏の方は、よう女の子に間違われるんとちゃうの。彼女の方は、男の子に間違われるやろ」と女。
 二人はそのままヘラヘラと笑いながら、直紀と千春に関する勝手な評価を並べ続けた。
 直紀は目眩がした。一体、これからどうなるのだろうか?恐ろしいことはいくらでも考えられたが、それを回避する術はなにも思いつかなかった。ほんの30分ほど前までには、自分と千春は日常の中に居た。
 しかし、今はそこから最も遠いところに居るような気がする。
 
 「…で、あたしたち、何をすればいいんですか」口を切ったのは、千春の方だった。
 思わず直紀は千春の顔を見た。千春はまっすぐ夫婦を見つめている。ヤバい。千春は完全にヤケになっている。夫婦も思わず虚を突かれた様子で黙り込んだ。ただでさえ静かだった室内がますます静まり返った。しばらくの気まずい沈黙の後、男がまたヘラヘラ笑いをはじめた。
 「…そんな、何って…なあ?」男は意味ありげに女の方を見た。「…何か、してくれるんか?わしらに
 「…別に何もしてもらう必要なんか、ないんよ」女の方が言う。
 「そやな、晩飯の時間くらいまで、わしらと楽しくやってくれたらええんや。」
 「…あの、それで本当に約束のお金がもらえるんですか」千春が核心にせまる。
 「そうや。わしらがウソつくように見えるか?」男がまた抜けた前歯を見せる。
 「…じゃあ、今、もらえますか。ここで」千春の口調はさらに厳しさを増した。
 「…最近の子はしっかししてるねえ」女がそう言って笑った。
 「ほんまや、かなんな」男が直紀に顔を近づけて小声で言った。「自分の彼女、コワイな
  女の方が席を外した。残った男は相変わらずニヤニヤ笑いながら直紀と千春を見ている。千春はまるで睨むように男を見据えていた。男は屁とも感じていないようだった。直紀は今すぐにでもこの場から消えてしまいたい気持ちで一杯だった。
 やがて女が茶封筒と、日本酒の一升瓶と、煙草のようなものを数本手に戻ってきた。
 「ほら、確かめてええんよ」と女が茶封筒を千春に差し出す。
 千春が茶封筒の中を改める。直紀が横から除くと、封筒の中には確かに万札が十数枚入っている。
 「…でも、おかしいじゃないですか。何もしないでお金がもらえるなんて」千春が言った。
 「…そう?わしら、金持ちやねん」男が女から受け取った紙巻き煙草に火を点けながら言った。
 辺りに煙と、真新しい畳の匂いが充満した。車の中と、この家の中を満たしていた、あの匂いだった
 「…まあ、ごちゃごちゃ言わんと、楽しゅうやろうよ」女が酒をコップに注いで、直紀に差し出した。「飲む?」
 「…え、あの…僕は、お酒は…」
 「…いただきます」千春が女の手からコップをひったくった。酒が少しこぼれた。
 「…おい…」
 千春はコップの酒を、ほぼ一気に飲み干した。少し口の端の傷に酒がしみたみたいで、一瞬顔をしかめたが、それでも負けじと酒を飲み込む。直紀は呆気にとられていた。
 夫婦はニヤニヤ笑いながら、その様子を見ている。
 「すごい、ええ飲みっぷりやなあ!」男が嬉しそうに言う。「君も行けよ」
  コップ酒が差し出される。直紀はそれを受け取ったが、もともと酒は飲めなかったし、飲む気もなく、とりあえず愛想笑いでごまかそうとした
 「飲みなよ」千春が直紀に言った。見ると、完全に目が座っている。「飲んどいた方がいいよ。だって、ただでお金なんてもらえるわけないよ。
 「…」直紀は黙り込み、手の中のコップ酒を見た。しかし見ていても酒が減るわけでもない。
 「…君はこっちの方いくか?」男が自分で吸っていた煙草のようなものを直紀に差し出した。強烈な畳の匂いが鼻孔をつく。「…なかななヨソではできへん体験やで
 「…いただきます」千春が横から手を伸ばしてその紙巻きをまたひったくった。
 千春が紙巻きに口をつける。煙を吸い込んで、はげしくむせた。しかし、それでもさらに吸い込む。またむせながら、千春は直紀に紙巻きを手渡した。
 「ほら、タダでお金なんかもらえるわけないんだからさ…」千春がむせながら言った。「ちょっとは協力しなよ。もとはと言えばアンタのせいなんだからさ
 直紀は紙巻きを受け取りながら千春を見た。指すような視線が返ってきた。千春の言うとおりだった。もう千春は完全にどうにでもなれ、というモードに入っている。
 この異常な状況下では、それはそれで賢明な選択なのかも知れない。
 千春の目がとろんとしている。ただの煙草ではないことは明らかだった
 直紀は意を決して、一口目の煙を吸い込んだ。不思議とむせなかったので、さらにもう一口吸い込んだ。それを繰り返しているうちに、天井がグルグルと回りはじめた。千春が直紀の手から紙巻きを受け取ってさらに一口吸った。今度はむせなかった。突然、千春が笑いはじめた
 ケタケタと、あのときのウサギ小屋の前のように子どものように笑った。
 なにもかもがどうでもよくなってきた。辺り一面が、西日でも入り込んだように明るく感じ始めた。
 目の前で、夫婦が意味ありげに顔を見合わせるのが見えた。


 
 

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