童貞スーサイズ
第二章 「ウェルカム・トゥ・ニルヴァーナ」
■第13話 ■ ノーペイン・ノーゲイン
「……ふーん……」活気のない中堅ホテル1階のティールームで、異様に背が低いその中年女は言った「……なんか、免許の写真と、印象かなり違うねえ」
「そ……そうですかね」芳雄は出来るだけ小さな声で答える。「かなり……痩せましたから」
女が手にしているのは、姉の運転免許証だ。いくら姉弟とは言え顔が違うのは当たり前だ……まったくの他人と比べればましだろうが。
だいたい運転免許証の顔写真というものは基本的に本体より写りが悪いもの……ということを加味してその中年女が免許証の写真と芳雄の顔を見比べてくれれば、二つの顔に共通する面影を見出してくれてもいいはずだろう。
そのチンチクリンの中年女は、むりやり短い脚をソファのうえで組んで、正面に座る芳雄のつま先から頭のてっぺんまでを、眺め回している。
これまでに女は芳雄の全身を7回目もスキャンした。
女は冗談のように大きな、濃い色の丸いサングラスを掛けている。その表情を伺い知ることはできない。
その姿は……『昆虫』を連想させた。
芳雄はコーヒーカップを手にする自分の手が震えていることに気づいて、慌ててカップから手を離した。
3時間前……待ち合わせ時間から十分に余裕を見て、芳雄はこのホテルのロビーに足を踏み入れた。
大きなボストンバッグを抱えた中学生の少年の姿は、この型遅れのシティホテルのロビーにはいかにも不似合いだった。
しかしフロント係もそこに集う枯れたような人々も、そんな少年の姿を奇異に思って注意をよせるには、くたびれすぎていたようだ。
芳雄は逃げ込むように……男子トイレに駆け込んだ。
幸いなことに、トイレは無人だった。 慌てて個室のひとつに飛び込む。
個室の中で姉の服に着替え、人気のないのを見計らって、男子トイレを出て、そのまま女子トイレに入る。
生まれてはじめて女子トイレに足を踏み入れたその瞬間……ちょうど個室から出てきた、みょうにスッキリした顔の若い女と鉢合わせた。
思わず足を止めてしまったが……冷や汗をかいて立ちすくんでいる芳雄に、女は少しも注意を向けなかった。
そのまま手を洗うと、温風機で手をじっくりと乾かし、トイレを出て行った。
芳雄にすこしも関心を払わないまま。
そのことは多いに芳雄を安堵させた……そして、洗面台の大きな鏡に自分の姿を映してみる。
鏡の中に居るのは……一週間前、自室の部屋の姿見に映っていた、あの美少女だった。
芳雄は鏡に映る自分の姿をじっくりと見つめながら……大丈夫、大丈夫、とひとり呟いてみた。
一度大丈夫、という毎に自分に自信がついてくるような気がした。
大丈夫………充分、女の子に見える。いや、むしろぜんぜん、余裕で。女の子にしか見えない
誰も、自分が男だとは気づくまい……大丈夫過ぎるほど、大丈夫だ。
さっきトイレから出て行った女と自分を比べても、自分のほうがよっぽど美しい。
話は3時間前から、さらに一週間前にさかのぼる。
芳雄のパソコンに、「クラブ・ニルヴァーナ」から返信があったのは、“心中ガール募集” コーナーに個人情報を書き込んだ翌日のことだった。
『一度、お話をお伺いしたいので、お会いできませんか?』
メールには一週間後の日付と、このホテルの名前とグーグルMAPのアドレス、そして大西という署名があった。
芳雄は改めてパソコンの前で考えた………。
本当に、やはり、これは最善の策なのだろうか?
不安でたまらなくなり、改めてクローゼットの中にしまい込んであった姉の服一式……『美少女変身セット』を取りだし、改めて身につけた。
鏡の前に立ってみる………大丈夫……大丈夫だ。
決して自己満足ではない……この姿を見て、自分を男と気づく人間など居ないだろう……服さえ脱がなければ。
どこからどう見ても女の子にしか見えない。
サイトが謳っている募集の宣伝文句どおりならば……『相手に触る必用も、脱ぐ必用すらありません!』なのであれば、何も問題は無いはず だ。
芳雄は鏡の中の自分の姿に、出来るだけ自信を持つように務めた。
それどころか、鏡の中の少女に、恋するように務めた。
これほどの美少女は居ない。
どこを探しても……きっと今の自分は、あの名前のない少女……ドウ子よりずっと美しい。
これまで自分の心を捉えて離さなかっ た、あの少女ですら、自分の美しさには叶わない。
芳雄は心の中でそんな言葉を反復することにより……少しずつ自分を亢めていった。
また勃起がはじまった。
よく見てみると……自分と、あの少女はどこかが似ているような気がした。
少しクールな目線を作り、鏡の中の自分に向かって意地悪な笑みを作ってみる。
ふくれっ面をして、困ったような顔をしてみる。怒ってみる……似ている。まるで、実の姉よりも似ている双子のようだ。
それを思うと、ますます下半身に血が集まっていった。
芳雄はそのフィーリングを失わない内に、“大西”とのミーティングを承諾する返信メールを書いた。
姉の服を着て、前髪をパンジーのピンで留めたままで。
待ち合わせ場所に、返信メールを送ってきた女……“大西”がやってきた。
活気のない、薄暗いティールームでキョロキョロしていると、芳雄に声を掛けてきたのが“大西”だった。
「ああ、どうも……小林さん?」
“大西”の姿を見て……芳雄はたじろかざるを得な かった。
小学生かと思えるほど低い身長のその女は、まるでトンボの目のような巨大なサングラスを掛けている。
芳雄がもしフィンガー5を知っていれば、“大 西”はあたかもアキラがその身長・体重のまま老化し、顔に深い皺を刻んだかのように見えただろう。
芳雄が座るテーブルの正面に、よっこらせ、と腰を下ろす “大西”。その性別を一目で判断することは難しかった。
「よろしく、“大西”です」“大西”が金属的なカン高い声を出したので、芳雄は辛うじて“大西”が女性であることを認識することができた。「緊張してる?」
「ええ」
芳雄は正直に答えた。声変わり手前の掠れ声が判らないように、出来るだけ小さな声で。
そして、“大西”は芳雄のつま先から頭のてっぺんまでを舐めるように眺めた。
それが一回目のスキャンだった。
「楽な仕事だと思ってる?」
“大西”は芳雄に姉の免許証を返しながら言った。
「……え?」
「楽な仕事だと思ってるんでしょ?そうじゃない?」
“大西”はそう言って口の端を歪ませた。
サングラスによってその視線は閉ざされているので、口の端でしか“大西”の気分を伺うことしかできない。
つまり、“大西”は今日はじめて笑ったのだ。
「……そんな……」
芳雄は口ごもった。どう答えていいのか判らなかった。
「大丈夫、思ってるよりもずっと楽な仕事だよ」“
大西”が先回りして言う。
「……そう……なんですか?」
芳雄はおずおずと大西のサングラスに映る自分を見た。
「うん、びっくりするくらい楽だよ。おおっぴらに宣伝すると、アタシなんか忙しくて目 が回っちゃうんじゃないかな。とにかく、できるだけ、極限までラクして儲けたいって子にはワンサカいるからね……でも、内容が内容でしょ? あんまり派手 に広告打てないからさ……あんな風にひっそり宣伝してるんだけど………今日はついてるわ。だって、あ んたみたいな可愛い娘、はじめてだもん」
「あっ……えっ……ほっ……」思わず嬉しさが声に出てしまった。「ホント……ですか?」
「うん、おせじじゃないよ、ホント、ホント」
そう言って、“大西”は2、3度唇を引きつらせ、キリギリスが鳴くような音を立てる……それが大西の笑い声だと気づくのに、芳雄は2、3秒掛かった。
「………ところで……本当に、男の人とお薬飲むだけでいいんでしょうか……?」
「うん」“大西”が事もなげに抱える「男は本気で飲むけど、あんたはテキトーにで、いいから」
「……はあ………でも、それで、男の人、………死んじゃったりしないんですか?」
「大丈夫だよ」“大西”はいやに細長いタバコに火を点けながら言った「こっちも致死量は判ってるから………実績と経験に基づいてね」
実績と経験……異様に冷たい肌ざわりの言葉だ。そこに父も関わってるんだろうか?
少し身震いがして、芳雄は唾を飲み込んだ。
と、“大西”の前に置かれた、銀メッキのスマホが巨大な甲虫のように振動をはじめた。
「あ……もしもし……」“大西”が電話に出る。「……ああ……いつも毎度。お世話になってます。……あ、うん、どう? そっちは? ……調子いい? ……… ふーん……まあこっちもボチボチだわ。……で……? 何? ………ええ? 今日?? 今から?」
と、大西はサングラス越しに芳雄をちらりと見る。思わず、芳雄は姿勢を正した。
「……うーん……ちょっと待っててね」“大西”は携帯の通話部分を抑えながら、芳雄に顔を近づけた「……あんた、いきなりで悪いけど、今日時間ある?」
「……え? きょ、今日?」
「今日、これから大丈夫?……予定とかない?」
「あの……えっと……」
どう答えるべきか迷った。
最近、よくこのような運綿の分岐点に立つことが多い。
そして、いつも芳雄の直感に基づく選択は、彼に危険と災いをもたらした。
しかし、そこから学び、知り、 探ったからこそ、今こうして芳雄はこの場所にいる。
真相のゴールに近づきつつある、と悟った。
リスクを負わなければ、得るものはない。ここまで 来て、リスクを回避する必要があるか……?
これまでの努力(?)を、無駄にするつもりなのか……?
芳雄はさらに背をしゃんと伸ばして、“大西”に言った。
「……大丈夫です。今日は、とくに予定ありませんから……」
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