無き世界に In a World Without Love
〜中国自動車道中1少女手錠放置死事件〜

第二章「手
の男」

妄想:西田三郎

■2004/11/30 (火) 第二章 〜手錠の男〜 13 

「ロリータ」

※この物語は、実話をもとにしたフィクションです。9割9分くらいまでが妄想です。
 
 はてさてまた4回ほど本題から外れたいと思います。
 
 職業意識という観点から見た場合、ククケンは自らの教え子を性愛(もしくは恋愛)の対象とした時点で、教師失格ということになります。29歳の、来年に30代を控えた大人と、ほぼダブルスコアで年齢の離れた15歳の少女との性愛は異常であるか?いかに本人たちがお互いに真剣だったとしても(…多分ククケンだけが真剣だったのでしょうが)それは常識的観点から見れば、異常なものです。

ククケンは誰からどう見てもロリコンであるといえます。
 
 しかし、ロリータ・コンプレックスというこの一種の性的趣向の定義は曖昧です。

 狭義では、この言葉を生んだウラジミール・ナボコフ:著「ロリータ」の主人公、ハンバート・ハンバートのように、12歳前後のちょうどお赤飯を炊くか炊かないかのあたりの少女に欲情する性癖のことをそう呼びます。この小説はこれまでに2回映画化され、1度目は巨匠スタンリー・キューブリックによって、2度目は同じく(ある意味)巨匠エイドリアン・ラインの手によります。ハンバート・ハンバートは前者ではジェイムズ・メイスンが演じ、後者ではこのような役をやらせたら右に出る者は居ないダメージ俳優ジェレミー・アイアンズが演じました。
 
 しかし以外にも、この「ロリータ」でハンバート・ハンバートを通して描かれる“元祖ロリコン像”は現在我々が抱いているロリコン像とは大きくかけ離れたものです。
 
 ナボコフの「ロリータ」は非常に暑苦しい文章で書かれたコッテリ味の作品であり、大変読むのが苦痛な小説です。先に挙げました映像化作品は2作とも、特に後者の方は細部に至るまで原作を完全に映画化していますので、未見の方にはお勧めです。
 
 では、「ロリータ」で描かれるロリコン像とはいかなるものなのでしょうか。

<つづく>


■2004/12/01 (水) 第二章 〜手錠の男〜 14 

「ハンバート・ハンバート」

※この物語は、実話をもとにしたフィクションです。9割9分くらいまでが妄想です。
 
 「ロリータ」の主人公、ハンバート・ハンバートは学者であり、たいへんなインテリです。そしてルックスもかなりイケているようです。現にロリータは少なからずハンバートに好感を抱きますし、ロリータのおかんなんかはメロメロになって結婚してしまいます。ハンバートは男前で洗練された男ですが、成熟した女性とのファックに全く興味を持てません。夜になると「かま〜ん」と迫ってくるしつこい年増に睡眠薬を盛り、

「おれはあの娘とふたりきりになりたいってのにあの淫売の雌牛はしつこく俺様のチムポをせがんできやがる。うっとおしいったらないぜ

 との日常の不満を日記に綴ります。やがてその日記を発見したこの淫売の雌牛慌てん坊のせいで車に轢かれ死に至る訳ですが、とにかくハンバートがイケてるナイスな中年であることは、作中で強調されています。

 してから何故ハンバートがそのような特殊な性的嗜好を抱くようになったのかと言えば、彼が12歳の頃に経験した同年代との少女との恋愛および悲痛な別れが原因。つまり、ハンバートは年相応にイケていて、教養や儀礼のレベルは同年代の男性の平均以上を上回るくらいに成熟しているのですが、セクシュアリティだけは12歳のままで凍結しているのです。つまり彼の心は12歳の少年の心を以て、同年代のロリータを愛するのです。

 さて、今日的理解では、ハンバートはロリヲタの基準から大きく離れています。
 
 まず、ルックスがイケてること。
 そして、教養があり、礼儀正しく、紳士であること。
 結果、同年代女性の目には、このうえなく魅力的に映ること。
 しかし、9〜12歳(原作第一部5章より)の少女にしか欲情できないこと。
 ポイントは、彼のその特異な性的嗜好には、12歳の時に経験した早熟な(ここ、試験に出ます)恋愛の原体験という、明確な理由があるところです。

<つづく>



 
■2004/12/02 (木) 第二章 〜手錠の男〜 15 

「ロリコンとペドフェリア(前)」

※この物語は、実話をもとにしたフィクションです。7割5分くらいまでが妄想です。
  
 間違っても、ククケンは「ロリータ」に出てくるハンバートのような人物ではなかった。ただ、現在の広義における「ロリヲタ」像よりは…ククケンの性癖はハンバートに近いものであったと言えます。現在日本において「ロリコン」とされる人々を指すエレメントは、「ペドフェリア(幼児性愛者)」という言葉に表されるものと同義です。
 
「ロリヲタ」と「ペド」の違いなど平等に唾棄すべき存在なのであるから興味はないという読者の皆さん、以下の文章はスルーしていただいて結構です
 
【「ロリコン」と「ペド」の違いその1】

ロリコンが求めるのは少女との心の交流であり、そのための対象の制限がある。
ペドフェリアは一般的に、対象とする子どもの性別を問わないものとされていますので、女児だけを愛するロリコンとは対象の限定において決定的に違っています。しかしロリコンとペドはその対象の限定というキーワードをして、さらに複雑な歳を持つのです。

 ロリコンもペドフェリアも、つまるところ幼い少女(もしくは少年)との肉体的接触を求める怪しからん性癖です。しかし、「ロリータ」に描かれるところの主人公:ハンバート・ハンバートが最終的に求めるのは少女との精神的交流です。事実、彼はロリータの実母の死後、いとも簡単にロリータとの性交を果たします。しかし、少女の心が自分のものにならぬことに対して、苦悩するのです

 ハンバートがロリータに求めたものはその若い肉体はもちろんのことですが、己が12歳だった時に果たせなかった同年代少女との情感の交流の再現です。その年齢の開きから、ロリコン者と少女はまともな形態の恋愛は不可能なのですが、それでも求めてしまう。

 少なくともロリコンにとって、その情欲の対象となる少女は精神的交流が可能である、一定以上の年齢に達していなければならない。おぞましい限りではありますが、その年限というのがつまり12歳とその周辺で(9歳〜12歳)あるわけです。

<つづく>



■2004/12/03 (金) 第二章 〜手錠の男〜 16 

「ロリコンとペドフェリア(後)」

※この物語は、実話をもとにしたフィクションです。7割2分くらいまでが妄想です。

【「ロリコン」と「ペド」の違いその2】

■ロリコンは年齢差を呪い、ペドフェリアは年齢差に欲情する。
 ロリコンにとって対象となる少女との年齢差は、情愛を成就させんとするその目的の『障害』でしかあり得ません。いや、「ロリータ」のハンバートには少年期の個人的体験が、方便として存在しますが、別にそんな事実があろうとなかろうと、ロリコンは、自らの実際年齢が対象の少女達と同じ12歳ではないという事実を呪うのです。

 対して、ペドフェリアにとって対象の少女との年齢差はそのまま情欲と結びつきます。自らを少女達とは違う成熟者であると自覚し、純真無垢な少女(少年でもおっけー)への性的侵略&搾取を行うことが即ち彼らを欲情させるのです。つまりペドフェリアの者達は、対象が幼ければ幼いほど良いわけであり、そこに誰にも踏み荒らされていない侵略の土壌を見ます。

 自らの年齢への自覚があるかないか、それがロリコンとペフェリアを明確に線引きしています。つまり、大人の自覚に欠けるのがロリコンであり、ペドフェリアは自らを大人として自覚しているからこそ、幼い子どもたちに欲情するのです。

 後者は歳を重ねても、“若ければ若い方がいい”という一般的男性のセクシャリティを獲得し得ますが、前者は12歳前後で低迷したまま
 

【「ロリコン」と「ペド」の違いその3】

■ロリコンのにとっての愛は相互的でありペドにとっての愛は一方的である。
 少なくとも、ロリコンは少女達の側から、自らの魅力に感心を持って貰えるよう、自らをソフィスケイトさせる努力を行います。ロリコンは自分が愛する少女達にも自分が愛されたいのであり、先方が己のことをどう考えていようと対象を愛でようとするペドとは一線を画しています。

 こういうとなんだかペドの方が邪悪で我が儘なように聞こえますが、ロリコンもペドもともすれば犯罪的な性嗜好であることに変わりはありません

<つづく>


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