愛無き世界に In a World Without Love
〜中国自動車道中1少女手錠放置死事件〜
第一章「許されざる者」
妄想:西田三郎■2004/10/22 (金) 第一章〜許されざる者 15
「わたくしの個人的憎悪と事情:その1」
※この物語は、実話をもとにしたフィクションです。8割7分くらいまでが妄想です。そんな少女の命を奪った、鬼畜な運命…これではまるで、サドの「美徳の不幸」ではないですか。
わたくしの心情は、激しい憎悪に変わりました。最近の例に例えますと、2003年5月20日午後3時頃、大阪府熊取町で吉川友梨ちゃん(※注1)を連れ去った犯人に対する怒りと同じような怒りが、わたくしの心を煮えたぎらせたのです。
この際、言っておきましょう。
吉川友梨ちゃん(当時9歳)を連れ去った犯人、
もし何かの間違いでこれを読んでいるなら、
今すぐ友梨ちゃんを解放しなさい。
法が君を追うのを諦めても、わたくしのような粘着の変態は君のことを忘れないし、絶対に許さない。
そしてわたくしと同じような人間が、この日本には少なくとも50万人は居ることを忘れるな。
無論、君の住む町内にも居る。
いいか、われわれは司法当局や、みのもんた、そしてみのが司会する低俗な番組に出演している高橋英樹のように甘くはない。そして寛容でもない。
われわれは君の安全と幸せを望まないし、いずれ必ず君を追いつめる。
いいか、これは警告である。
今すぐ彼女を解放するのだ。
話がそれました。
しかし…その後、ノノ子たんが死に至るまでの足取りが明らかになり、わたしを含める世の中全体が、なんだか気まずくなるのです。【衝撃ポイント第一点】ノノ子たんは児童養護施設で暮らしていた。
土家ノノ子たんは2000年8月13日、姉のリエたん(当時14歳)と二人で、大阪市中央児童相談所を訪れ、
「家族と離れて生活したい」
と申し出ています。児童相談所はノノ子たんの置かれている状況があまりに厳しいものであると判断し、2001年11月より、彼女の施設入りを許可。結果、ノノ子たんは大阪市ヨドガワ区内にある児童福祉施設そこから学校に通学していました。姉のリエたんは同年12月に別の施設に預けられています。
理由?父テルオさんからの彼女らへのハードな暴力と虐待です。
ちなみにノノ子たんが初めて児童相談所を訪れた日は、彼女の12歳の誕生日の翌日でした。まあ当然のことですが、父の土家テルオさんは後にこの事実を否定しています。
ですので今となっては確証はないのですが、先に挙げたノノ子たんの手による、小学校卒業時の作文「小学校をふり返って」の中に、
>わたしが、この学校に転校してきたときは、ともだちは、ひとりもいませんでした。とあったのは、ノノ子たんが東ヨドガワ区ズイコーから児童福祉施設施設の所在するヨドガワ区に転居した結果です。
ノノ子たんはそれ以降、児童福祉施設から学校に通い、小学校を卒業。そしてそのまま、中学に入学し、通学していました。施設に入っていたからといって、ノノ子たんが不幸であったと決めつけるのはよくないでしょう。
“施設に入っている子ども=不幸”なんてのは大映ドラマ&タイガーマスク的な先入観でしかありません。
しかしその事実は、ノノ子たんが死亡したこの事件とは直接的な関連性はないにも関わらず、大きく報道されましたし、この事件の感触を何か異様なものにしました。“施設=不幸”という世間一般の先入観がその原因であるともいえるのですが、その後に判明してくる様々な事象により、死の直前まで彼女が置かれていた環境が、事件そのものに大きく影を落とすことになるのです。
【衝撃ポイント第二点】ノノ子たんが死ぬまでに一番ハマッていたのは、テレクラだった。
はてさてとんでもない事実が出てまいりました。ノノ子たんがその哀れな死までの2年間で、いちばん夢中になって熱心に取り組んでいたのは、勉学でも、所属していたソフトボール部での活動ではなく、テレクラで知り合った見知らぬ男性と会うことでした。
確かに12歳にしてはかなりおませさんな趣味であります。
2001年7月24日の午後8時半、ノノ子たんは、
「“活動電話”で知り合った男の人に会いにいく」
と言い残して、女友達の前から去り、永久に返ってこなかったのです。
“活動電話”とは、ノノ子たんとそのお友達の間で、“援助交際”を指す隠語でした。<つづく>
(※注1 何か情報、お心当たりの点がありましたら、泉佐野警察署【TEL 0724−64−1234】までご連絡ください。)
NEXT/BACKTOP