図書館ボーイ

作:西田三郎


■11■ いつでもカウンターにいます


 この部屋には小さな洗面台もあった。
 今、仲馬さんはうがいをしている。
 
 ぼくは鏡の前にへたり込んだまま、立ち上がれないでいた。
 まだ自分のあれがひくっ、ひくっと律動しているのを、鏡でぼんやり見つめていた。
 仲馬さんから渡されたウェットティッシュ(また、メンソール入りだ)で、その部分をキレイにする気さえならなかった。
 でも、いつまでもここで、こんなふうにだらだらしているわけにはいかない。

すっごい出たね!」洗面所でうがいを終えた仲馬さんがハンカチで口 元を拭いながら戻ってきた。「あのさ、リップ貸してよ。ほら、あたしがプレゼントしたやつ……」
「…………」ほとんど気力がなかったが、スカートを拾い上げ、ポケットを探る。あった。
「あ りがと」仲馬さんはリップを受け取ると、ぼくのまえに立って鏡を見ながら、リップを塗り始めた。「んん〜……懐かしい味だなあ……これさ、わたしがきみく らいのときに……その制服着て学校通ってたときに、使ってたのと同じなんだよね。まだ売ってるなんて、びっくりした」
「あの……」ぼくはおずおず声をかけた。「もう……着替えていいですか?」
「ああ、男の子に戻るの?……どうぞどうぞ」
 ぼくは股間をしみるウエットティッシュで拭うと、のろのろと服を着始めた……本来のぼくの姿に戻るために。

「…………ところでさあ………あの本」鏡越しに背後のぼくを見ながら、仲馬さんが言った。
「え?」
「『学校現場の性被害〜声なき被害者たちの声』って……あの本だけど……きみが熱心に読んでたあの部分……あれ、ホントの話かねえ?…………ほら、女の先 生三人に、宿直室でいたずらされた小学生の男の子の話。わたしには、どーーーーも……アレ、ホントの話と思えないんだよね〜」



 沈黙。
 ぼくはズボンを履き終え、シャツのボタンを黙って止め続ける。



「ほかの本で読んだんだけど…………『少年時代に年上の女性から性的ないたずらを受けた』って申告する男性の告白って、けっこうな割合でアテになんないん だって」
「…………どういう………意味ですか?」

 ぼくは、すくなくとも、あんたに、いまさっき、いたずらされたんだ けど。

「………… すべてがそう、ってわけじゃないんだけどさ。そう書いてる心理学の本もあってさ……なぜだかわかんないけど………成人になっても女性と満足に関係を築け ないでいる男性は、ああいうウソをついて……その『理由』を作りたがることがあるんだって。確か、ダザイオサムも小説で子どもの頃にいたずらされた、みた いなこと書いてたけど…………ホントかねえ?…………オーエケンザブローの本にも、看護師さんにエッチなことされる小説があったよなあ……まあいいけど、 あの、 『学校現場の性被害』で体験を告白してたのも、30代の男性、ってことになってたよね。で、自分の『体験の告白』のあとに、こんなふうに書いてあった の……読んだ?……“あの 体験のせいで女性というものがまったく信用できなくなり、今になっても結婚はおろか、女性とまともにつきあうこともできない”って」
「…………ぼくの話が、信用できないって意味ですか?」
「ううん」仲馬さんが鏡からぼくに振り返る。「信じるよ。何も本に書いてあることだけが真実じゃないし」
「何が…………何がいいたいんです?」
「はやく服着ちゃいなよ……あ、首のマイク、返してね」
「…………」

 ぼくはシャツを着てしまうと、首の包帯を外して、首輪のようなマイクを取った。
 それを仲馬さんに手渡そうとすると……仲馬さんはどこから取り出したのか、ICレコーダーを操作していた。
 いきなり、ICレコーダーから、ぼくの声が再生される。

“あああっ…………だめっ…………もうだめですっっっ!!!”

「なっ………」
 ニンマリと笑う仲馬さん。
「よしよし……よく録れてる」
「ぼっ……ぼくを……ぼくをまだ脅すつもりですか?……これっきりって……言ったじゃないですかっ!!」 
「……それはそんときの話でしょーがあ?」
 ひひひ、と笑う仲馬さん。まったく悪びれた様子もない……ぼくは…………とんでもない悪人に捕まってしまったんだろうか?……いや、仲馬さんが善人では ないことは、充分思い知っているつもりだったけど……。
「消してください!その録音、消してください!!」
「やだ。あたしの大切な思い出だもん」
「…………その録音を使って、ぼくをまた呼び出して………こんなことをさせる気ですか?」
「…………そんなことしないよ」一瞬だけ、仲馬さんが悲しそうに俯いたような気がした……あくまで、気がしただけだ。「……でも、気が向いたら、またわた しと遊んでよ。司書の仕事って、けっこう退屈なんだ」
「…………だったらだれか、ほかのエジキを探してください……」
「あらま、冷たい」
「ぼく……もう帰ります。帰っていいですね?」

 ぼくは仲馬さんに紙袋を突き出した……無意識のうちに、脱いだセーラー服をきちんと畳んで、紙袋に入れていた……自分の几帳面さが、つくづくイヤにな る。

「…………うん。またね」
「…………もう二度と、ここへは来ません」
「寂しいわ〜…………でも、待ってる。わたしはいつも、一階カウンターにいるから」
「……………」

 仲馬さんを振り返りもせず……ぼくは講義室を後にした。



 それ以来……仲馬さんには会っていない。
 それ以来……といっても、この事件があったのは、今日の午後で、今は真夜中。ちょうど日付が変わったところだ。
 ぼくはお風呂上がりの身体を、自室のベッドに横たえていた。

 二度と、図書館なんかに行くもんか……ずっと、そればかりを頭の中で繰り返していた。
 でも、どうなんだろう?……これから先、どうなるんだろう?
 このっま眠りについて、明日の朝目を覚ましたら……決心が折れているかもしrない。
 仲馬さんのことを、懐かしく思っているかもしれない。

 また、ぼくはあの図書館に行く ことになるんだろうか?……自分の意思で?

 すると、カウンターの中にいる仲馬さんがあの不思議な色の目を細めてぼくに微笑む……。
 


 いつの間にか、僕はすべての決定を明日に任せて、眠りに逃げ込んでいた。


 …………このぼくの話を読んでくれた、あなたならどうしますか?






<了>
2012.9.13


 

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