終電ガール
作:西田三郎
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■終電は行った
気が付けば桐東さんも、野尻も藤岡も、すっかり逃げてしまっていて、影も形もない。
「大丈夫ですか?お嬢さん」駅員が紳士的に声を掛ける。
柴田満はホームの汚い地面にぺたんと座り込んでいた。満の白い太股が露わになっている。
おそらく50代と思われるその紳士的な駅員が、なるだけ太股から視線を逸らそうとしていることは満にも判った。満もいたたまれなさそうな駅員が気の毒に なって、立ち上がり、セーラー服の紺色スカートを直す。
と、内股に精液が一滴、筋を伝って流れた。
駅員はこのことも見なかったことにしてくれたようだ。スカートがひどく何かで汚れていることも含めて。
しかし、どこまで紳士的な駅員なんだろう。駅員は自分のポケットからアイロンの掛かった綺麗な白いハンカチを、黙って満に差し出した。
思わず満もそれを受け取る。
「ありがとう…」わざとか細い声で言う。
「返さなくていいから」駅員は満から目を逸らせて言った。
受け取ったハンカチで、内股を拭う。駅員の言葉に甘えて、ハンカチはポケットに入れた。
「もう終電行っちゃったよ。大丈夫?」駅員が柔和な笑みを浮かべて言う。かなり無理をしているが。
「はい…」小さな声で呟くように満は答えた。「親に連絡しますから」
「そうか、なら大丈夫だな」
駅員にはそれがウソだということは、お見通しだったのかも知れない。
紺色のカラーがついた白いセーラー服に、少し長めの前髪をピンで留めた満。その傍らに立つ駅員。
ホームにはもうほかに人影はなく、どこまでも静かだった。
「これからは、気をつけた方がいいよ。大きな声を出すとか、同じ車両に乗らないとか」
「は…」満は戸惑って答えた。やはりこの駅員はまだ真相を掴めていないのか。
そのことで、少しホッとした。
まあ、理解できる訳もなかろう。満自身もことの次第を一から話してみろ、といわれれば困るに違いない。
満はここ数ヶ月間、自分が身を置いてきたあまりに異常で奇怪な状況のことを思った。
誰にもそれは理解できない。それを理解できないことは、その人間がまともな人間であることの証にさえなりそうだ。そう思うと、つくづく空 しさが募った。
14年生きてきたけども、こんなに空しい気分になったのははじめてのことだ。
「じゃあ、そろそろ、ホーム閉めるから…」駅員は言った。
「…はい、ありがとうございました。親に電話します。」満は駅員に深々と頭を下げると、背を向けた。
5、6歩ほど改札に続く階段に向かって歩いた時、後ろから駅員が声を掛けた。
「…なあ、君」
振り返る。駅員は、何か少し悲しそうな顔をしていた。
「…はい?」
「大きなお世話かも知れないけど……誰かに相談した方がいいんじゃないか?」
沈黙。
しばらく、満には駅員が言った言葉の意味が分からなかった。
しかし、駅員のその悲しそうな表情を見ているうちに、満は理解した。
そして駅員のあまりにも紳士的な優しさと、深い慈愛に、涙が出そうになった。
「はい…そうします」満はほとんど聞き取ることができないくらいの小さな声で呟いた。
駅員がさよならを言う代わりに微笑む。満も微笑んで、そのまま階段を上った。
改札を出て、駅前の広場に出る。
“誰かに相談したら”、か。満は心の中でそう呟いた。
多分あの大ベテランらしい駅員は、その職場での長い、長い経験から得たもののうちで、一番ふさわしい言葉を、満に投げかけてくれたのだろ う。やはり、彼には全てがお見通しだったに違いない。彼の信じられないほど長く、退屈な経験の中には、ひょっとすると自分と同じような人間 が、一人や二人は居たのかも知れない。
だから彼は、このあまりにも異様としかない状況を見透かし、その上、自分に優しい言葉まで掛けてくれた。
さっき満は、“そうします”と答えたものの、それがウソであることは自分でもわかっていた。
あのようないい人に、そんなその場しのぎのウソをついた自分は、ますます汚れて醜い存在のように思えて仕方がなかった。
駅前のタクシー乗り場は、終電を逃したか、眠りこけてここまで来てしまったかどちらかの、サラリーマンやOLたちで溢れていた。今日は金曜の夜。近づき はしなかったが、多分みんな酒臭いことだろう。
日本では1年に30,000人の自殺者が出ているという。そのおかげで最近、満が利用してる電車も良く止まったり遅れたりする。日割りに すると1日85人。どうも信じられない。
こんなにも沢山の人が終電を逃すまで酔っぱらっているというのに、不思議な話だ。
桐東さんは今夜ちゃんと家に帰ることができただろうか。あのセーラー服のまま、タクシーに飛び乗ったのだろうか。そう思うと少し滑稽だった。もう会うこ ともないかも知れない。もしくは来週、またひょっこり自分の前に現れるかも知れない。どっちでもいいだろう。
桐東さんに相談してみても、ろくな回答は得られないだろうな、と満は思った。
まあ常識的に考えて、このままの格好で家に帰る訳にはいかないだろう。
スカートとショーツは、精液でベトベトに汚れているし、いくら闇夜とは言え、紺のスカートに白く乾いた精液は目立ち過ぎる。
満はそのまま、リュックに入れた着替えとともに、いつも利用している駅前の公衆便所へ向かう。満はその公衆便所の車椅子用のトイレを愛用していた。
広いし、荷物を汚さずに置ける場所もたくさんある。
トイレに入り、カギを掛ける。
こんな時間にこのトイレを利用する車椅子の人間は、まず存在しないだろう。
スカートを脱いだ。
思ったとおり、スカートの前と尻に精液がべったりとこびりついている。クリーニングに出さないといけない。布地を裏返すと、内側にもした たかに飛び散った飛沫の後が見えた。
履いている女もののショーツは、さらにべちょべちょに濡れている。
先ほど駅員からもらったハンカチを水道の水で濡らすと、内股にこびり付いた精液をふき取る。このハンカチは捨てるしかない。駅員もそう言っていたし、こ んなハンカチを返してもらっては彼も困るだろう。
ショーツを脱ぐ。したたかに精液を吸い込んだそれは、粘つく汚物そのものだった。
これも捨てないといけないな。桐東さんから借りたものだが、彼女もそれくらいは許してくれるだろう。
第一、もう会わないかもしれないのだから。
さらにハンカチを絞り、満は自分の下半身にこびりついた精液を拭った。
そして、すっかり力を失い、萎んでいる自分の性器も。
スカートの前を汚したのは藤岡、後を汚したのは野尻だろう。
しかしショーツとスカートの内側を汚したのは、満自身の精液である。
あの駅員の目の前で太股に伝った精液の滴も、明らかに満自身のものだった。
学生ズボンを履いて、半袖シャツを着て、前髪を留めたピンを外す。
トイレの個室から出て、本来の姿に戻った自分を、手洗い場の鏡で見た。
そうすると突然、いつものように…あらためて空しさと罪悪感が襲ってくる。
ふと、満は自分の左の首筋になにか、虫に噛まれたような跡があることに気づいた。鏡に近づいて目を凝らす。直径1センチほどの、丸く赤い 跡。
それが桐東さんが満に残したキスマークであることに気づくのに、1分ほど掛かった。
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