終電ガール インテグラル

作:西田三郎




■第三章 『終電ガール』

 最終話「せっかく気持ちよくしてあげたのに」



 月曜の朝も朝の電車は混んでいた。
  千春は電車に揺られながら、先週末の深夜、輝から掛かってきた電話について考えていた。

  ……あれから何度か電話してみたが、輝は電話に出なかった。
  何かあったのだろうか……?……それとも、この前あんまりにもいじめたので、避けられてるんだろうか?
  ……それとも、あの少年としたことをあまりにどぎつく語り過ぎたから……嫌われたのだろうか?

 いずれにせよ、輝とは連絡が取れない。
  まあいいか、とも思った。どうせ塾に行けば、輝に直接会えるのだから。

 それにしても……と千春は思った。
  あの晩、輝が言っていたことが気になって仕方が無い。
 
  確か輝は、『帰りたい』と言っていた。

  それは……ある記憶と奇妙に一致していた。
  ぴったりと一致してはいるのだが、それがなぜ一致したのかがわからない。

 あのビルの裏で、少女の格好をしたあの少年は、すべてを千春に話してくれた。

 セーラー服を着た中年男に、トイレで思いっきり辱められたこと。その男から、自分専用のセーラー服を もらったこと。それからそのセーラー服を身につけて、自宅でオナニーに耽ったこと。それだけでは物足りなくなり、それ を来て夜の街に出かけるようになったこと。やがてそれでも我慢できなくなり、インターネットの女装愛好家が集う掲示板に、 自分の密かな願望を書き込みはじめたこと。その掲示板で知り合った男と、駅のホームで待ち合わせたこと。二人して終電に 乗り込んだこと。込んだ車内で、その男にもてあそばれたこと。その快感に喘ぎ、甘い声で鳴いたこと。すると調子づいた その男が……電車の中で………少年の股間にシェービングジェルを塗り、生え始めていた陰毛をすべて剃りあげられてし まったこと……。

  それから……その快感の虜になった少年は、毎朝のようにセーラー服を着て電車に乗っては、痴漢を待ちわびるようになった。事実、美少女にしか見えない少年 には、痴漢の手が群がってきた。……しかし、多くの痴漢は、少年の正体を知ると、慌てて手を引っ込めていった……。

  しかし一部の痴漢は、そのことでますます欲望を掻き立てられて、ますます………。

 これらのことはすべて、事細かに、輝にも話して聞かせていた。
  輝はこのことを……恐ろしく興奮した様子で聞き入っていた。


 
  しかしこの後のことは……輝に明かしてはいなかった。

 
  少年はすべてを話し終えると……また静かに泣き始めた。
  正直言って……千春はこれらの話を心から信じてはいなかった。
  どれもこれも、にわかに信じがたい話である。
  多分……少年がこんなふうになってしまったことには、明確な理由も、このようないかがわしいストーリーもないのだろう。少年はそういうふうに生まれついて しまっただけだ。

  千春は大して頭が良くはなかったが、勘は鋭かった。


  そんな少年がとても気の毒になったが、どうしても腑に落ちないことがあった。

  それが千春にとっての最大の疑問だったから……はっきりさせておく必要がある。
  だからできるだけ少年をこれ以上傷つけないように気を遣いながら……やさしく声を掛けた。
  「ひとつだけ……聞いていい?」咳払いして、続ける「……じゃあさ……なんで………なんであたしに……なんであたしに、痴漢してきた の?
  「…………」少年は答えない。泣きはらした目で、千春を見上げてくる。
  「……君は……女の子になって………その……えーっと……人から触られるほうが………好きなわけじゃん?………じゃあその……なんで、あたしのこと……自 分から触ってきたりしたの?」

  そもそも、それが全ての始まりだった。

  「……一回だけならまだしも……なんであたしに付きまとって、2回も触ってきたの?………ねえ、なんで?………あ、ひょっとすると……あたしに一 目ぼれしちゃったとかだったりして」
  「……それは………」少年が目を伏せた。「……聞いても怒りませんか……?」
  「え?」答があるらしいことがまず、驚きだった。「……怒らないけど……」
  「……女の子なら、誰でも良かったんです」少年は目を伏せたまま言った「……ちょうどあの日、僕の前にあなたが 立っていたからです。それに……あなたの背が高くて、お尻が触り心地がよさそうだったからです……触りやすい位置に、あなたのお尻があったからです……誰 でも良かったんです……ごめんなさい………」
  「あ………そう」なぜか、少しがっかりした。「……でも、なんで?……なんで、あの日に限って……触るほうに回ろ うとしたの?」
 
  一呼吸置いてから、少年が目を伏せたまま、答えた。
  「帰りたかったんです………」
  「え?……どこに?」
  「………わかりません…………」

 このことは、輝には聞かせていない。

  あの少年が、ひょっとして今朝もこの車両に乗ってたりしないだろうかと、千春は車内に目を配った。
  ドアの前に、彼と同じような涼しげな印象を持つ少女が立ち、窓から外をぼんやりと見ているのが見えた。
  違う。ぜんぜん違う。似ても似つかない。
  自分と同じ年頃の、ただの少女だった……いや、決め付けるのはよくないかも知れない。
  あれがほんとうに見たとおりの少女であるなんて、どうしてわかるだろうか。

 

 電車が駅に到着する。
  人の波に押されて、千春もホームに流れ出た。
  と、そこで、先頭車両のほうから激しい怒号が聞こえてきた。

 「………てめえ、何考えてんだよ!!

 声変わりもまだしていないような、少年の声だった。
  目をこらした。セーラー服姿の女子高生に、小柄な中学生の少年が掴みかかっていた 。
  少年の友人らしい同じ制服の男子中学生二人が、必死で少年を止めようとしている。
 
  「どうしたんだよ?やめろって!!」
  「やめろよ……落ち着けって!!」

 しかし、少年は怒りと……そして恐らく恐怖とで、ほとんど青くなりながらなおもセーラー服を着た少女を放そうとしない。千春の位置からで はその後姿しか見えない……ボブ・カットの髪が、ぐらぐらと揺れていた。
  周囲の人間は……その様子を遠巻きに眺め、誰も止めようとしない。手をこまねいているようだ……何かだった。い くら『無関心な都会』にはありがちな構図とはいえ……千春自身も、離れてはいたが、その異様な空気を感じることができ た。

 「……こいつが、このおっさんが、俺のチンコ触りやがったんだよ!

 え……おっさん?……???
  少年はほとんど泣き声のような悲痛な声で叫ぶと……女子高生のボブ・ヘアーを殴りつけた。

 「ひゃっ……」

 思わず悲鳴が出た。殴りつけられた女子高生の頭がふっとび、ぼとり、と線路に吹っ飛んだのだ。
  ……いや、違う。吹っ飛んだのは、黒髪だけだった。……頭はセーラー服の上にちゃんと残っている。
  頭頂部まで禿げ上がった、中年男性の頭だった。

  少年とセーラー服……を着たその男……がもみ合ううちに、千春の位置からもその頭の禿げた男の顔が見えた。なぜ、少年があそこまで怯えているのか……それ が千春にも理解できた。化粧を塗りたくり、目を見開き、歯をむき出しているその顔は……これまでに見てきたどんな悪夢の中でも、出くわしたことがないくら い醜悪だった。

 男が野太い声で叫んだ。

 「気持ちよかったやろ???」男が少年を挑発するように叫ぶ。「気持ちよかったんちゃうん か???……おっちゃんに触られて、感じとったんちゃうんか???……チンコ、ビンビンになっとたぞ!!!………あと もうちょっとでイきそうになっとったんとちゃうんか???………わかっとる、わかっとるんや!!!…………おっちゃんも、ようわかっとる んや!!!」
  「マジキメえんだよ!!!!」

 少年がさらに男を殴りつけ、倒れた男を踏みつけるように足蹴を加え始めた。
  仲間の少年二人が必死に彼を止めようとするが、少年の怒りは激しく、納まりそうもなかった。
  男は足蹴にされながらも、ヒステリックに叫び続けた。

 「……おっちゃんも自分らくらいの歳の頃、電車の中で知らんおっちゃんに触ってもろたんや!!!…… めちゃくちゃ、気持ちよかったんや!!!……何やかんや言うて、ほんまは気持ちええんや!!!……気持ちようなって、最後にはイってしも たんや!!!!……男の子のことは、男が一番よう判っとるんや!!!
  「キメえ!!超キメえ!!

 男はまるでサッカーボールのように少年に蹴られながら、わけのわからないことをわめき続けていた。
  鼻血が、セーラー風に飛び散って、赤い染みを作っていた。
  少年の仲間二人以外、この事態に介入しようとする者は誰もなかった。

 「う、うそでしょ……」

 千春は思わず携帯電話を取り出して、登録してある輝の携帯に電話した。
  7回コールのあと、2日ぶりに輝が出た。

 「……あ、輝くん???……ねえねえ、今、超すっごいの見ちゃった」興奮のあまり、声が上ずっていた。「……聞きた い???」(了)

 

2009.11.30

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