先生、この冷たいのなんですか

作:西田三郎
「第1話」

■サク、サク

 昨年の末の話だ。と、いうことはほんのつい最近のことなのであるが。

 「この前さ、すっごい笑える事件があったの知ってる?……東北の方で殺人事件があってさ……その日は大雪だったんだ。で、雪が積もってて、死体の脇から足跡がずーーっと続いてたんだって。で、警察がそれを辿っていくと、犯人の家まで続いてた(笑)で、犯人は御用になったんだって」
 「………」
 
 悠は答えない。さっきからずっと黙ったままだ。
 その顔は下から半分以上をマフラーで覆われていて、ほとんど伺うことができないが、帽子とマフラーのわずかな隙間から覗く目が明らかに醒めているのは事実だった。

 「怒ってるわけ?……やっぱり」
 「別に。気になるんですか」悠がマフラーの下から答える。

 しばらく新雪を踏みしめるサク、サクという二人の足音だけが続く。
 雪は横殴りに降っている……辺りは真っ白で、右も左も上も下もわからないくらいだ。こういう状況では、たまに『ホワイトアウト』という現象が起きるらしい。真っ白な銀世界を延々と歩いていると……人間はいったい自分がどこを歩いているのか、どこまで歩けばいいのか、どこまで歩いてきたのか判らなくなって、てんかんのような発作を起こす。……って感じだったかな。ちょっとどこかで読んだだけだからそのへんはいい加減だ。

 「……寒いね」おれは言った。
 「………」やはり悠は答えない。

 仕方がないのでそのまま黙って歩き続けることにした。
 
 サク、サク。

 雪の勢いはいっそう強くなっている。駅までの道はまだまだ長い。
 誰もおれ達を追い越してはいかないし、誰ともすれ違わない。……ここはどこなんだ?本当に日本なんだろうか?それとも南極かどこかか。
 靴の中では感覚を完全に失った指先が丸まっている。手袋をしてはいるが、それに収まっているはずの指先もまた、すべての感覚を失っていた。まるでゆっくりと冷凍されているような気分だ。
 悠は相変わらず口を利かない。
 
 赤いニット棒にぐるぐる巻きのマフラー。分厚い茶色のダッフル・コートに雪道には実用的なスノーブーツ。小さなその姿を見ていると、まるで小学生のように見える。
 俺の方も負けずに着膨れしている。零下30度まで持ちこたえるという触れ込みの綿入れの防寒ジャケットにウールのズボン……その中にはちゃんとパッチまで履いているが、それでもやっぱり寒いものは寒いのだ。
 ちらちらと悠の横顔(と、言ってもほとんど見えないのではあるが)を伺いながら、新雪をひたすら踏みしめ続ける。

 サク、サク。

 本当に悠は小学生のようにしか見えない。
 しかしこうやっておれと一緒に雪道を歩いている。
 振り返れば、おれと悠がつけた足音が、延々と後方に続いている。それを逆に辿っていけば……ここから2キロほど後方のラブホテルの出入り口に到着する筈だ。
 いや、この雪だから……ラブホテルから出てすぐにつけてきた足跡はもう消えてる頃だろうか?
 多分消えてるだろう。今、消えていないとしても数分後か小一時間後くらいには確かに。
 しかし俺と悠が先に進むたびに、新しい足跡が作られる。
 後から後から雪が降り積もり、古い足跡を消していくが、われわれが歩くたびにまた新しい足跡が作られていく……いたちごっこというやつか、これは。少し違うか。

 サク、サク。

 「……駅前でなんか食べようか?うどんとかなんか暖かいもんを」俺は悠に言った。「……いい店知ってんだよ。てんぷらが旨くて……」
 「お腹は空いてません」悠がおれの言葉を遮る。
 「……ごめん、いや、あの、それならいいんだ」

 サク、サク。

 「……ああ、もう今年も終わりか……」おれはつくづく意味のない事を呟いた。
 「先生……」悠が出し抜けに呟いた「あの、いいですか、そんな事より
 「……ああ、うん、ええっと……ごめん」
 「……前から聞こうと思ってたけど、この際聞いちゃいます。今年ももう終わりだから」
 「ああ、ええと……」嫌な予感がした。下痢の兆候みたいな、重苦しい空気だ。「……何?聞いてよ、何でも」
 「……あの、どうなんです。先生。ほんとにあたしの事、好きなんですか?
 「……えっ」いや、予期してはいた。しかし、それでも冷や汗が出た。

 雪が横殴りに降りつけるこの零下の雪道の中、新雪を踏みしめながらも冷や汗が出た。
 「どうなんですか」悠が聞く。おれの方を見ずに、まっすぐ前方を見ながら。

「……そりゃ、もう……」感覚を失った唇から、また耳カスより軽い言葉が飛び出す「愛してるよ。あったりまえだろ?
 
 悠の足取りは変わらず、おれの方も見ない。

 「……じゃあ、なんで……」悠が同じ調子で言う「……なんであたしに、あんな事ばかりするんですか?」

 サク、サク。

 おれたちは一直線の新しい足跡を作り続けた。

<つづく>



 
 

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