P.T.A. 作:西田三郎

「第15話(最終回)」

■OTHER & MOTHER

とりあえず、枝松の車と弘の車は廃車となった。
理恵はシートベルトを着用していたので、その痕が胸の上に出来た以外は、奇跡的に無傷だった。やがてその傷もきれいに癒える
 功も姉の座っていた助手席のシートの後に頭をぶつけ、軽い脳震盪を起こした。少し鼻血を出したが、CTスキャンでの検査の結果も良好。言うまでもなく鼻血も止まった。
 枝松はシートベルトをしていなかった為、そのままフロントガラスを頭で突き破って、弘の運転するカローラのフロントガラスさえ突き破り身体の半分を車内に突っ込むような酷い有様だったが、両の鎖骨と肋骨を4本、そして首の骨を折っただけで命を取り留めた。どういう訳か枝松の車のエアバックは作動しなかった…が、ついているといえばついている。医者の話では、後遺症は残らないだろうとの事。
 全く、神など存在はしない。因果は神の管轄ではない、というのであれば話はべつだが。
 弘は、カローラのエアバックが正常に作動したため、鼻の骨も折らずに済んだ。
 しかし、その身は今、警察の保護下にある。
 現場にブレーキ痕はなく、弘が故意に枝松の車に衝突したことは明らかだったからだ。
 弘は沈黙を守っている。
 正式に逮捕され、弁護士が彼の目の前に現れても…抜け殻のようになった弘がその動機を語り始める見込みは薄かった。すべてに対して無反応で、興味を失った様子の弘は、常人と同様に司法の裁きを受けることすら、出来ないかも知れない。
 弘に外傷はなく、治療を受ければ治癒する可能性も無いことはないが…事実上、この件で最も深手を負ったのは、弘であるといえた。
 
 ところで、あの衝突の衝撃によって、枝松、理恵、功の痴態がしっかりと収められた8ミリ・ビデオカメラはダッシュボードにぶつかった衝撃で四散し、その中に収められた映像は、遂に誰の目にも触れることなく、この世界から完全に抹消された。
 枝松は大けがのおかげでそのラッキーを掴んだと、本気で考えているようだ。
 
 ジーンズにTシャツというラフな格好の奈緒美が病室に顔を出したその時、枝松は理恵よりも若く見える子供のような女性の看護師に、溲瓶を当てられ、放尿しているところだった。枝松はばつが悪そうに笑ったが、看護師は真剣で笑わなかった。
 首と胸を、ギプスで留められ、ほとんど身動きも出来ない姿勢でベッドに横たわる枝松の姿は、奈緒美の目にも充分痛々しかった。かつてこの男に愛情などを抱いたことはないような気がするが、それでも
 こんな時は、どのような顔をして、どのように声を掛ければいいのだろう?
 奈緒美は2秒ほど悩んだが、遂に答は出ず、とりあえずの笑みを浮かべると、枝松のベッドの脇にあった椅子に無言で腰掛けた。
「どう?」奈緒美は枝松の顔を見た。すっかり別人になったみたいだな、と思う「痛む?」
看護師が奈緒美に黙礼して、退場する。
「…あの娘、可愛いだろ」枝松は少し掠れた声で言った。ここのところ余り人と話していないのだろう「出来れば、こんなふうじゃなく、あの娘に出逢いたかったな」
懲りてないね…」奈緒美はため息を吐いた。しかし…何故か、心は大らかだった。
ふしぎな話だが、こんなにもなって虚勢を張っている枝松が、すこしだけ愛おしく思えた。
「…理恵ちゃんと、功くんは、元気?」枝松が目だけを動かして奈緒美を見る。
「うん、でも………あたしたち、引っ越すことになったの。理恵も功も、中学を転校するの」
「…あ…」枝松はぽかんと口を開けた「そうか…………で、何処へ?」
「…ううん、多分、あたしの実家。仙台」
「…仙台か……」
「…そう、仙台」
「…遠いね」枝松が、落ち着きなく目をきょろきょろさせる。
「…で、あなたはどうするの。先生?」理恵はいちおう聞いてみた。答が無いことは判っていたが。
「…これから、か……」枝松が目をぱちくりさせる「…さあ、学校は辞めなきゃならんだろうね。それ以降は……どうなんだろ。ぜんぜん見当もつかない」
「……ふうん」
病院の窓から、まだそれほど厳しくはない、初夏の光が射し込んでくる。
開け放たれた窓から、ふわり、と涼しい風が入ってきた。
外の木々のまぶしい緑。
遠くからは下校時間か、見知らぬ子供達の声。
ふたりはしばらく、無言で座っていた。
奈緒美は話す気が無く、枝松は話す話題が無かった。
5分ほど、会話もないままに、時間が過ぎた。
「……じゃあ、帰るね……さよなら」奈緒美が腰を上げた。「手ぶらで、ごめんね」
「いいんだよ……でも……」枝松が何か話題を見つけたようだ。「ひとつ、聞いていいかい?
「…何?」奈緒美は枝松をやさしく見つめた。どんな質問でも、答えてあげるつもりになった。
…何でおれと…」枝松が唇を舐める「おれみたいなやつと…ヤろうと思ったの?
奈緒美が思っていたよりもずっと、簡単な質問だった。奈緒美はもう一度だけはっきり笑うと、枝松に言った。
「初恋のひとが先生だったからよ。中学のときの」
枝松が黙る。奈緒美はしばらく枝松を見つめ、もう彼から新しい反応がないのをしっかりと見届けてから、彼に背を向けた。病室を出たけど、枝松を振り返りはしなかった。
 呼び止める声も無かった。
 
 そうか…身動き出来ないベッドの上にあって、枝松の思考だけが窓から入ってくる風にふわりと流された。
 病室を出ていく奈緒美の、褪せたジーンズに包まれた、素晴らしいけつを拝む。ジーンズの束縛さえなければ、プリンのようにやわらかく揺れる、奈緒美の尻。そしてその左側の中央には、以前おれのものだったあの双子の黒子がある。
 それが文字通り、今、おれから離れていった。
 おれも…と、枝松は思った。
 おれも、同じだよ。
 はじめてヤッた女の左の尻に、同じ双子の黒子があったんだよ。
 そうは思ったが、枝松はその後50年続いた人生で、それを言葉にして誰かに聞かせることはなかった。(了)
 
2004.10.6


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