ノルウェイの鮭
作:西田三郎

「第14話・最終話」

■ノルウェイの鮭

 「こんどは、多分、わたしが大人になったら会いに来ます」ギターケースを僕から受け取って、緑が言った「……お世話になりました」
 「……また、面会に行っていいかな」
 「……ダメです。またわたしにへんな事をするつもりでしょう。そうは行きません」
 「……そうか」僕は苦笑いして下を向いた「じゃ、さよなら」
 「……またいつか」
 自分の背丈と変わらない大きさのギターのハードケースを手に……緑は改札を越えてホームへ続く階段へ登っていった。見えなくなるまでに、一度くらい僕に振り向くだろうか?……そんな甘い期待を少し抱いた。しかし、緑は一度も振り返らずに視界から退場していった。
 
 僕は改札の外に一人残された。やることは、もはや何もなくなった。
 どうするべきかを考えた……今、何ができるだろうか。
 何もできやしない。
 また、不意に感情の津波が押し寄せてくる。この駅の人混みの中で泣き崩れたって、僕に失うものなどなにひとつない。頭のおかしい奴と思われるだろうか。 別に構いやしない。みどりや、緑のように、塀の中に居るのに塀の外の連中よりずっとまともな人たちが居る。逆に、僕のように塀の外に居ても過彼女たちより ずっとおかしな人間も居る。みんな、僕の同類なのだ。この世の中全体がいかれてるんだ。
 
 しかし……どこまで人間ができてるのか、それだけ考えても僕は人前では泣き崩れなかった。
 
 少しでもまともなものに触れたかった。健康で、少しも死に結びついていないものに。
 
 気が付くと、僕はミドリの暮らす休業中のエロ本屋のシャッターを叩いていた。
 すぐ、ミドリがシャッターを開けてくれた。
 「どないしたん……なんか、顔色悪いで?」
 ミドリに抱きついた。
 「ちょ……ちょっと………あかんて、ご近所さんの目もあるし……」
 「じゃあ……中に入れてくれ」
 ミドリは僕を店の中に入れると、シャッターを閉めた。2階に上がって、改めてミドリに抱きついた。そして、僕は、そこではじめて泣いた。
 
 「僕は……」はじめて、自分の思いを言葉にする「……僕は、人間の屑や。……病気の彼女がいながら、自分は気楽に遠く離れた場所で君みたいなヤリ友とヤ りまくってる……それでも、彼女の病院に見舞いに行った……そこで、彼女とも……みどりともヤッた。ヤりながら、隣の部屋に居る、オナニー狂いの11歳の 女の子に、欲情してた……その子とヤッてるつもりで、病気のみどりを突きまくった……ほんま……ほんまに最低や……それでそこから帰ってきたその脚で、君 んとこに来た。……君とヤるときも、心の中では……ちいさな緑のことを考えてた……恋人のみどりの方やなくって。…………その間に……その間に、みどりは 森の中で首を吊って死んだ……みどりは僕への手紙で……自分が死んだのは僕のせいやないって書いてくれた……外で、別の女の子とつき合ってもええよっ て……そこまで言うてくれた……僕はそれに甘えた……甘えられるだけ、甘えた……みどりが死んでから、小さな緑が僕んとこにやって来た………緑は僕の部屋 で酒を飲んで、下手くそな歌歌いまくって、それから僕は……小さな緑と……まだ11歳の緑とセックスした………ほんまや………自分でも信じられへんけ ど……僕は11歳の緑ともヤッたんや………今日、緑はキチガイ病院に帰っていった………どうしたらええんや……なあ、僕は人間の屑やろ……どうしたらえ え……どうしたらええと思う?」
 
 ミドリはすべての話を聞き終えると、やさしく笑った。
 母親さえ見せてくれたことのない、やさしい笑みだった。
 
 「一発、あっさりしたセックスでもしてスッキリする?」ミドリが言った「それとも、ご飯作ったげるけど、食べる?」
 「……僕を……許してくれるんか?」
 「許すも許さんもないよ……あたしにはそんな権利ないし」ミドリが立ち上がって、台所に向かった。「……セックスより、ご飯やね、今は」
 「……僕は、どうしたらええんやろう?」ミドリの背中に、僕は聞いた。
 「そやなあ…」ミドリは振り返らずに言った「今した話、全部段ボール紙にでも書いて、首からぶら下げといたら?……きっと、みんな同情して、優しくしてくれると思うけど?」
 「……」
 
 しばらくして、みどりが目の前に料理を並べてくれた。
 焼き鮭と、浅蜊の佃煮と、ほうれん草のおひたし、ご飯に、赤出汁のみそ汁。
 僕は、鮭に箸を入れて、口に運んだ。味覚から……全身の感覚が帰ってきたような気がした。
 
 「おいしい?」ミドリが身を乗り出して聞く「ノルウェイ産やで、それ
 
 大学の卒業と同時に、ミドリとは別れた。
 4人目の“みどり”には、まだ巡りあっていない。(了)
 
 (2005.3.29)


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