必殺にしきあなご突き
作:西田三郎「第1話」 ■ばね足ジャックの話
19世紀末にイギリスの片田舎に、“ばね足ジャック”と呼ばれる謎の怪人が出没したという。
あたしもちらっと本で読んだだけだから、あんまり詳しいことは知らない。
“切り裂きジャック”は有名だけど、“ばね足ジャック”なんて、なんだか名前からして冗談みたいだけど、伝えられているお話はもっと冗談みたいだ。
“ばね足ジャック”は、切り裂きジャックのような殺人鬼ではない。
“ばね足ジャック”は、何人かの女の人を襲い。レイプしようとして失敗した。こういうと単に煮え切らない痴漢みたいだが、事実、“ばね足ジャック”のやったこと自体は、その程度のことだった。
しかし問題は、“ばね足ジャック”自身が全く非・現実的な存在であり、その正体が今日にいたるまでさっぱり分からないということだ。
語り継がれているところによると、“ばね足ジャック”は悪魔のような邪悪な顔(どんな顔だ)にらんらんと輝く目を持ち、頭に角のついた銀色のヘルメットを被っていたらしい。全身タイツみたいにぴったりしたぴかぴかの青いスーツを着て、黒いマントを羽織っていた。手には鋭いかぎ爪があり、それで女の人の衣服を引き裂いたという。
そして口から人に蒼白い炎を吐きつけ、警察に追いつめられると数十メートル上の建物の屋根に飛び上がり、ぴょんぴょんと屋根から屋根に飛び移って、そのまま夜の闇に消えたというのだ。
いくらなんでも、ウソ臭すぎる話だ。
あたしも正直言って、この話はウソだと思う。
しかしウソだとは思うが、ただのウソならばなんでここまでウソくさいウソが語り継がれているのか、その理由がわからない。おとぎ話や言い伝えには教訓など、それが語り継がれていることには何らかの意味があるが、この話にはそんなところがまったくない。
ただ単にあり得ない話。
それが今日まで語り継がれていることは実に奇妙なことだ。
あたしの体験したことも、この話に似ている。
少なくともこれまで人並みで平凡な人生だったと思うけど、16歳の時に経験したあの事だけは……自分で体験したことながら、未だに何だったのかよく理解できない。高校を卒業してから郷里を離れて以来、これまで一度もあのことに関して人に話したことはなかった。……わざわざ人に話して聞かせるような話でもないと思ってきたし、ちゃんとしたオチがあるわけでもないし、第一、こんな話を聞かされた人が面白がるとも思えない。この話には、“ばね足ジャック”の物語と同じく……人に語り聞かせるにしては余りにも現実感と意味がなさすぎる。
だから、あたしがこの話をするのは、あなたを楽しませたいからでも、あなたに理解してもらいたからでも、また信じてほしいからでもない。
改めて語ることによって、あたしの中でこの話に関する、何らかの見解が出るかもしれない……別にそんな見解なんか出す意味はまったくないのだけど、かといってあたしはこのことを忘れることはできない。あたしの記憶の中で、この話はものすごく収まりが悪く……それがとても不快なのだ。
まるで、のどに引っかかった魚の小骨や、夏の夜に部屋に飛び込んできた虫の羽音、一体どこで転がり込んだのかわからない靴の中の小石とか……なんかそんな感じ。
だから、この話はあなたにとってはまったく有益ではない。
しかし、あたしにしてみても、軽い思い出話気分でこの話をするわけではない。
実際、16歳だったあたしにとってはものすごく恥ずかしい体験だったので、これを語ることには多少の苦痛と不快を伴う。トラウマってほどではないが……あの事件はあたしの心にしっかりと、四つの痕跡を残していった。
一つめは、満員電車に乗ると、落ち着かなくなってしまったこと。
二つめは、それからというもの、人の噂を簡単に信用しなくなったこと。
三つめは、多分あたしはこれから一生、整体や鍼灸やカイロプラクティスの類は受けないだろうということ。
四つめは、きれいな女の子を見かけると、なんとも言えないもの悲しさを感じるようになったこと。
それだけのことだが、それだけのことでも、あたしはやっぱりこの話を忘れることができない。
あたしにとっての“ばね足ジャック”の物語は、本家“ばね足ジャック”と同じく……痴漢に纏わるお話だ。
…………あたしが話しにくい理由を、何となく判ってもらえただろうか?
<つづく>
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