ほんとうにお願いします 作:西田三郎 ■会話
「あんな…ほんまに、あたしやなかったら、あんた、はっ倒されてるで。」
河底さんは、おれを哀れな捨て犬を見るような目で見て、ため息をついた。
「こんなお願い、普通はものすごい失礼で、非常識な話なんよ。判る?」
「ええ、よく判ってます」
「それに、あたしかて…いつもこんな話聞いてあげるわけやないんよ」
河底さんが、煙草に火を点けた。厚めの唇が、煙草のフィルターを吸い上げる。煙草の先がパチパチと音を立てた。煙を肺に溜めた状態で、河底さんがおれを見る。一重瞼の、切れ長の目。いつも眠たそうで、半開きの目つきをしている。凝視されて、思わず目を逸らせた。
決して美人というわけではなかった。しかし不細工というわけでもなく、どういう訳かその顔を見ていると自然とよからぬことを考えてしまう。
おれが視線を逸らせると、河底さんは満足したのか、顔に掛かっていた前髪を書き上げ、笑みを見せた。河底さんはおれより2歳年上でもう29、来年は30だそうだが、笑うと15の少女のようにも見える。
「なんなん…あたしやったら、大丈夫やと思たん」
「…いえ、あの、その…」
「だれか会社の人があんたに言うたんやろ。そんなんやったら、河底に頼んでみいって」
「…え、そんな…」
河底さんはいたずらっぽく笑うと、コタツの向こうから身を乗り出しておれの顔を覗き込んだ。黒のぴったり躰に張り付いた、薄手のセーターを着ている。胸元は非常識ではないくらいだが、それでも必要以上にに開いたデザインだった。
鎖骨と、豊かな胸の中腹に至る4分目くらいの部分が目に飛び込んできた。その部分からして、とらえどころのない柔らかさが見て取れる。化粧気のない顔や首もとと同じく、その部分も真っ白だった。いつのまにかおれは一旦逸らした目を、河底さんの胸元に集中させていた。
「誰、あんたに入れ知恵したんは。経理の棚山さん?営業の下田さん?」
「そんなんと違いますよ」おれは缶ビールに口を付けながら答えた。本当は総務の吉田係長の入れ知恵でここに来たのだが。「前から河底さんとじっくり話たかったんです」
「嘘ばっかり」
そういうと河底さんは、敏捷に躰をおれから離し、座椅子の背もたれに身を投げ出して大きく延びをした。短い丈のセーターが持ち上がって腹が覗き、縦型の可愛らしい臍が見える。
「嘘ちゃいますよ、本当です。」
「それにしてはそんなお願いするにはまだ酒がぜんぜん少ないような気がするけどなあ…」
「いや、僕、酒弱いんで」
「ふうん…」
実際、缶ビールを4本空けたが、おれは少しも酔っていなかった。河底さんは少し酔っているようだった。それとは何の関係もないと思うが、河底さんから漂ってくる柑橘系の香水の香りも、少し強くなったような気がした。恐らく気のせいだとは思うが。
河底さんは、胸の前で腕を組んで、おれをまっすぐ見た。
いまにも笑い出しそうな顔だった。
胸の前で組まれた腕が、胸を持ち上げている。気が付くとおれは、またそれを凝視していた。
「カレー、美味しかった?」河底さんが聞いた。
「え?…あの、そりゃもう」
いましがた平らげたのは、河底さんが作ってくれたカレーだった。
今日の午後、夕方近く、相談があると言うと、河底さんは快く聞いてくれると言った。込み入った相談なのでと言うと、それじゃあウチにおいでよと、快く部屋に入れてくれた。きちんと片づいた、2Dkの部屋。そこで河底さんは、おれにカレーを作ってくれた。特製のカレーで、大蒜を刻むのではなく、薄くスライスしたものを入れ、じっくりと煮込むところがミソだそうだ。実際、とても美味しく、おれは大盛りでお代わりをした。
「ほんま…?」河底さんがおれの顔を覗き込む。ずっと笑っていた目に、ほんの一瞬だけ陰りが見えた…いや、それはおれの気のせいだったかもしれない。「おいしかった?」
「ええ」おれは咳払いして答えた。
河底さんは煙草を灰皿でもみ消すと、また身を乗り出しておれの顔をじっと見た。酔いのせいか、すこし目が潤んでいる。おれはまた目を逸らせた。人と目を合わせるのは苦手なのだ。
「そうか…そりゃ、良かった」河底さんがため息まじりに言った。「いいよ。別にあたしは」
「本当ですか?」おれは思わず身を乗り出していた。と、河底さんは猫のようにおれから身を引く。
「そんな、大きい声だして喜びなや。」河底さんが前歯を見せて笑った。小さな八重歯が覗いている。「子供やなあ、君は」
「…えへへ、どうも」おれは頭を掻く仕草をした。いつの間にか、できるだけ自分を可愛らしく見せることができるように振る舞っている自分に気づいた。まあ、それでもいい。
「でも、これだけは覚えといてや」と、河底さんの笑顔が消えた。少し潤んだ目でまた目を見据えられ、おれはまた目を逸らせた。
「何ですか…あの、ゴムやったら…」
「そんなこと違う。そんなんどうでもええねん」
「あの…」おれはもどかしくて仕方がなかった。だったら何だ、この売女。下半身に血が行きすぎてズキズキしていた。「何でしょうか」
「これは、今回一回きりの話やで。わかってる?」
「え…ええ」
「いつでもこんなこと、頼んだらできると思たら、大間違いやからな」
「ええ…そりゃ、もちろん」“こっちだってそのつもりだよ”と思ったが、当然口にも、顔にも出さなかった。
「それと、このことは誰にも言うたらあかんで。判ってる?」
「はあ」“ていうか、あんたがいつもこんなことしてるのは会社のみんなが知ってるよ”とも思ったが、これまた口にも顔にも出さなかった。
「あともうひとつ」河底さんが一層おれに顔を近づけた。香水の香りがその瞬間、さらに強くなったような気がした。
「何ですか」
「…優しくしてな」
「もちろん」“もったいつけてんじゃねえ、この年増が”と思ったが、それもまた我慢だ。
「…ふうん…」河底さんがまた座椅子に身を投げ出した。躰を後ろに反らせて、おれの顔を半笑いで見ている(また臍が見えていた)。しばらく沈黙が続いた。おれはじりじりしながら、次の動きを待った。我慢、とりあえず我慢だ。あと少し我慢すれば、売れ残りのすれっからし女ではあるけども、一応は生身の女とデキるのである。
「とりあえず、お皿、片づけるわ」
河底さんがおれの皿と自分の皿を重ね、ふわりと立ち上がった。河底さんの動きはひとつひとつが柔らかく、捕らえどころがなかった。正面に向かったおれの脇をすり抜けて、キッチンの流しに向かう。おれはその後ろ姿を目で追った。河底さんは肉感的な体型である。きちんと腰はくびれているので、太っているというわけではないが、芳醇な印象を持つ躰つきをしている。梨を裏返したような形の柔らかそうな尻が、股上の浅い、色あせたジーンズをはちきれんばかりに盛り上げている。ジーンズは脚全体をすこし窮屈目にぴったりと覆っていた。長くはないが、形のいい脚だった。その下にはペディキュアをしていない素足だった。
なんとまあ、こんな風に後腐れなくヤるにはもってこいの躰をしてる女だ、と俺は思った。
河底さんが流しの蛇口をひねり、皿を洗い始めた。
「ごめんやけど、サラダの皿持ってきてくれる?」河底さんが言った。
おれは無言で自分の分と、河底さんの分の皿を手に取ると、立ち上がった。
信じられないくらいにズボンの中が突っ張っていた。あまりにもそれが目立つので、直立できないくらいだった。先走りの液がパンツの中でぬるぬるするのを感じた。このままいくと、ズボンを汚してしまいそうである。一刻の猶予も許さない状況とは、このことを言うのだろう。
おれはサラダの皿を手に、河底さんの背後に歩み寄った。
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