イグジステンズ
〜存在のイっちゃいそうな軽さ〜
作:西田三郎
■2■ 牛島あらわる
会社の帰りだった。いやに仕事が手際よく片付いた日だったが、こんな日はろくなことがないに違いない。
これまでの経験が言っている。何だか、悪い予感がする。
飯田は今日はうちに来ないので、ひとりの部屋に帰っても仕方がない。だから会社の近所のドトールで、ぼんやりしていた。
二人がけの席の正面では、カップルがじゃれていた。ブサイクな女が、ブサイクな男にグチグチと痴れ事を並べていた。
見ているだけで虫唾が走るくらい醜いカップルだった。「だってそうじゃん……」女が言った。「ミチホだっていつも言ってるもん。スキとかスキじゃないとかって、ちゃと言ってくれなきゃわかんないじゃん」
ブハっ、とアイスコーヒーを噴き出しそうになった。
男は迷惑そうだったけど、なんとかこの場を丸く治めたいらしい。
「……ミチホがなんといおうと、俺らのことは俺らの問題じゃん。俺らは俺らでいいじゃん。スキとかスキじゃないとか……言葉にしなくてもわかるときはわかるだろ」
また、ブハッとアイスコーヒーを噴き出しそうになってむせた。
ブサイクなカップルがわたしのほうに振り返ったので、わたしはむせながらあわてて視線を逸らせた。
そのわたしの様子を見て、そのブサカップルが顔を見合わせ、「プッ」と笑った。
スクスを笑いあうカップルの声が、必死で逸らした視線の向こうから聞こえてくる。
ちくしょう。なぜだ。なんであんなブサカップルの痴話げんかの中和剤にならなきゃなんないんだ。
“何、あのヘンな女。……ひとりでさびしーねー……”
ブサカップルの声が聞こえてくる。いや、実際に彼らの声ではないだろう。彼らの心の声だ。わたしは時々……こんな空しく孤独で無為な時間を過ごしているとき、限定的にテレパシーが使えるようになる。
わたしだって……わたしだって……ちゃんと男くらいいるんだから。
週一回だけやってきて、バックで突きまくって、そのあと、割り勘で居酒屋で一緒に飲む男が。そろそろほとぼりさめたかな……と思って視線を元に戻したら、わたしの視線を塞ぐように、大きな、のっぺりした顔があった。
いつのまにか、テーブルの正面にそいつが座っていたのだ。
「わっ!」単純に驚いたので、大きな声を出してしまった。「な、何?」
男からリアクションはない。そして、ゆらり、と大きな頭を揺らして、口を開いた。
「……驚かせてすみません。大田結衣さん」そののっぺり面が言った。「ちょっと、いいですかね?」
「……い、いいも何も……誰? ……誰ですかあなた?」わたしはかなりパニクっていた。
「申し送れました。わたしは牛島といいます」
名前を名乗られても……さっぱりわけがわからない。その顔のでかい男は無表情にわたしの目をじっと見ている。年齢は30歳前後。顔がでかいこと以外は、 これといった特徴は何もない男だった。いい男というわけでも、とくに不細工というわけでもない。『のっぺりしている』としか表現がしようのない顔だった。
いや、それにしても……あまりにも顔がでかい。
それがその男の印象のすべてだ。
「……失礼ですが……飯田さんのことを考えておられたんじゃないですかね」のっぺりした男が言った。「……飯田さんとお付き合いされて……2年でしたっけね」
「……ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ……」わたしはますますパニくっていた。「なんで……知ってんの?」
「まあ陳腐な言い方をしますと、“ずっとあなたのそばにいました”という感じですよ」
そういって、のっぺりした無表情な顔を貼り付けた、大きな頭を揺らす。
キモい。これは……いわゆる……アレなのだろうか。
そんな、いくらわたしがかわいくて、きれいで、セクシーだからと言って。
「……そ、そんな……あんた、誰よ。いつからわたしのこと、ストーカーしてんのよ」
「正確なことばで言うなら『ストーキングしている』です」のっぺりがまた揺れる。「ええ、ストーカーといわれても仕方ありません。わたしがあなたに出会っ たのは、何年も前です。飯田さんの前の、あなたの交際相手も存じ上げています。高田さんですね?……その前は、畑さん……その前は、内村さん、その前 は……」
「ケーサツに言うわよ!」わたしは思わず、声を荒げていた。
ブサカップルが、わたしたち……今はわたしと、この“牛島”と名乗る男とワンセットで、“わたしたち”だ……を振り返って、いぶかしげに見る。
さぞ面白い見世物だったろう。
「ケーサツ?」男……その“牛島”が、首をかしげる。「……わたし、あなたに何かしましたか?」
「な、何かしたかって……あんた、自分でそういってるじゃん! あんた、何年間もわたしのことをつけまわしてたんでしょ? ずっと監視してたんでしょ? ……あんた、いまさっき自分でそう言ったじゃん!」
「でも、あなたはわたしの存在に気付きましたか?」のっぺりとした男が、無表情に言う。「わたしが自分で打ち明けない限り、あなたはわたしの存在に気付か なかった……これまでずっと、5年先も10年先もわたしがあなたのそばにいたのに、あなたは気づかなかったのだから……何の問題もないでしょう?」
「てか、今、自分でそれを明かしたじゃん! ……キモいんだよ!」わたしは声を荒げていた。
牛島は答えない。
ブサカップルのことは、もう気にならなかった。
「てか、あんたが打ち明けてくれたせいで、わたしもう、あんたの存在のこと知っちゃってるし。もう、まじキモいんですけど。これからもあんた、ずっとわた しにつきまとうつもりなんでしょ? ……“ストーカー宣言”してるじゃん! 警察に言うから! ぜえっっっったい、警察に届けるから!」
「わたしは、人の足元にある影のようなものですよ。あるいは、その場をただよっている空気。あるいは、透明人間」牛島が自嘲的につぶやく。「どうってことはありません。わたしのことは気になさらずに、これまでどおりに生活できますよ。あなたが気にしさえしなければ」
「キモッ!」
わたしは思わず椅子から立ち上がった。
こいつ、典型的な、絵に書いたような、ニュースに出てくるようなストーカーじゃないか。
「座ってください。みんな見てますよ」のっぺり顔の男が無表情に言う。
店内を見回す。確かに、あのブサカップルをはじめ、店内中の人間がわたしたちを見ていた。
「……あんたね」わたしは咳払いして、椅子に座りなおした。「それって、わたしにとっては迷惑なの。てか、そんなこと、わざわざ教えてもらっても、わたし はぜんぜん嬉しくないの。どうせだったら、ずっと見ててもいいけど、そんなこと教えてくんないほうがよかったね。そしたら、わたしは平和な気分でいられた のに」
「これからも平和ですよ」と牛島は表情を崩さずに言った。「あなたは、これまでどおりに過ごせます。飯田さんと激しいセックスもできる。これまでどおり、 『いきそうか?』って聞かれたら『いきそうっ!』って答えて、オルガスムスを迎えるふりをすればいい。わたしが、そばにいることなんて気にせずに」
「お、“オルガスムス”って……ってか、え……?」わたしは、ぽかん、と口を開いた。「な、な、な、なんで……なんでそんな知ってるの?……まさかあんた……わたしの部屋、盗撮とか盗聴とか、そういうことしてるとか? ……それってもう完全に警察沙汰じゃん!」
「盗撮も、盗聴もしていませんよ」そこでまた、牛島が口だけで笑った。「わたしはきのう、あなたの部屋にいたんです」
「……え?」ゾッと背筋が凍る。イヤな汗が吹き出す。「ど……どういう意味?」
「だから、あなたと一緒にベッドにいました」
「……な、何いってんの?」こいつは……ストーカーどころではない。それ以上の問題を抱えているようだ。
「……ゆうべは、ちょっと飯田さんのお姿をお借りしただけです」と牛島。「……どう思います? あなたが昨日、愛し合った相手は、飯田さんの姿をした私だったとしたら……」
「消えろ! 変態!」
席を立って、アイスコーヒーの残りをそいつの顔にぶっかけた。
まるで昔のドラマの大仰な演出みたいに。
ブサカップルのほうから”ヒャー”みたいな叫び声が聞こえたような気がするけど、完全無視の方向で。
消えろといいつつ、彼の前から消えたのはわたしのほうだった。
わたしは飛び出すようにドトールを出る。とりあえず、あの“牛島”から遠くに離れたかった。
コーヒーをかけてやったとき、あいつは、驚きも怒りもしなかった。瞬きさえしなかったように思う。
わたしが席を立って店を飛び出しても、追いかけてくる気配はなかった。
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