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どちらへお掛けですか
 
作:西田三郎


【注意】
この作品は、一見ポルノ小説のようであり、わいせつな表現がたくさん出てきますが
あくまでミステリー小説として書かれたものです。
殺人も起きませんし、探偵と犯人の知恵比べもありませんし、
表層的なトリックなどもありませんが、あくまでこの作品はミステリー小説です。
露骨な表現や濡れ場は、ストーリーの構成上、盛り込まざるを得なかったものばかりです。
18歳未満の方は、保護者同伴でお読みになることをおすすめします。




■月曜の朝、午前2時

 「ほんとうにね、あたし、昔からついてないの」

 電話の向こうで、カランと氷がグラスの中で崩れる音がした。女は酔っているようだった。

 「なぜそう思うんです?」おれも煙草に火を点けながら答えた。「誰と比べて、ついてないと思うんです?」
 「誰って……」 女は少しムッとした声で言う。「決まってるじゃん、みんなよ、みんな
 「“みんな”って誰のことです? 抽象的ですね」
 「うーん…例えば、姉さんとか、妹とか」
 「3人姉妹なんですか? 『若草物語』ですね」 適当に興味を持ってるふりをする…これが結構難しい「メグとジョーと……ええっと、あと誰だっけ」
 「ベスとエイミー。あっちは4人、こっちは3人」 女は勝ち誇ったように言う。
 「そうですか……失礼しました」予想どおりの反応だった。
 「なんかさ、あたしって、子どもの頃から、姉さんには押さえつけられーの、妹には突き上げられーのでずっと縮こまって生きてきたの。判る? この辛さ? あ なた、兄弟いる?」
 「……はあ、姉が一人」それは本当だった。7年ほど会っていないが。
 「ふーん、お姉ちゃんか……あんた、下なんだ」 女がふう、とため息を吐く「じゃあ、わかんないよね。あたしの気持ちなんか」
 「いえ、理解しようと努力しますよ。でも、ちゃんと聞かないと理解もできませんからね。続けて」
 「ふふ」 ほんとうに“ふふ”と字で書けそうな声で、女が笑った。 「仕事熱心ね、独身?」
 「……あの、質問してるのはわたしなんですが」

  “この売女”は寸での処で飲み込んだ。

 「……あ、ゴメンゴメン、どこまで話したっけ……あ、そうそう、とにかくさ、姉さんは5年前に結婚して、今は3歳の息子が居るし、妹なんか去年結婚して双子 の女の子作ったのよ? 信じられる?」
 「はあ」べつに信じられないような話ではない。
 「上も下もさあ、ちゃんとした男と結婚して、さっさと子ども産んで、あたしと顔合わす度に言うわけ。“あんた30も過ぎて何やってんのよ。バイト で食いつないで、男ともつき合わないで、無駄に歳ばかり喰って”って」
 「あなたに直接?」 煙草の煙を吐き出す。漫画の吹き出しみたいに煙が広がる。 「そりゃ、ちょっと酷いですね」
 「ううん、口では言わない。で言うのよ。で」
 「目で?」
 「……うん、目で言うの。なんか上手いこと言えないけど……なんだか、見下されてるってすごくわかるのよ。いかにあたしと比べて、自分たちがまともで、幸 福で、満たされてるのかってことを言ってる目よ。あれは、絶対。そういうのって、口で言われるよりもずっと辛いのよ」
 「多分……」 なんだそりゃ。やっぱりこの売女はいかれている。 「それは、気のせいだと思いますよ」
 「ふうん……」
 いかにも芝居がかった声で頷いたあと、女がしばらく会話に空白を作る。

 沈黙。

 人間は会話している相手がわざと沈黙を作ると、その気まずさに耐えきれず、意味のない言葉でそれを埋めようとする。その意味のない言葉の羅列に、その人 間の本性が現れる。女はそれをよく判っているのだろう。多分、日常の会話でもこのような小手先のテクニックを、好んで用いているに違いない。

 女が何も言わないので、おれも黙っていた。そんな子供だましの手には乗らない。
 おれが黙ったままでいるので、女の方が咳払いして言葉を続けた。おれの勝ちだ。

 「……やっぱり、あんたもそんな風に思うんだ…あたしが何か、被害妄想で、甘えてて、正しいのは姉さんと妹だって…そうでしょ?」

 おれは答えなかった。もうそろそろこのお遊びにも飽きてきた。

 「……そんな風に思うんだったら、何であたしの相談なんか聞くのよ。はじめから、否定すればいいじゃない。あんた相談のプロでしょ? プロな らプロらしく、あたしのことを最後まで否定しないで話を聞きなさいよ。あたしだって、あんたみたいな奴から、何か人生がそっくり変わるような素晴らしい一 言を頂戴できるとは思ってないわよ。単に話を聞いて欲しいだけよ。だーれもあたしの話なんか聞いてくれない。だからあんたのとこに電話してんじゃない? あ んたにまで頭ごなしに否定されたら、あたし、どうすればいいの? ねえ? どうしたらいい?」
 「……ええと……」おれも咳払いして言葉を準備した。より効果的な一言になるように「死んだらどうですか?

 ……しばらくの沈黙。少しだけ、胸がドキドキした。この沈黙ほどたまらないものはない。

 「……え?」
 「死んだらいいんですよ。いっその事。ラクになれますよ」
 「あ……あんた……何を……」
 「死んじまえよ。あんたみたいな下らない女。どうせ生きてたってロクなことないって。死んじゃえ死んじゃえ。誰も止めない よ」
 「何……言ってんのよ……あんた……」女は動転している。いい気味だった。
 「今日寝る前に死ねよ。いいか、明日まで生きてるんじゃない。あんたが死ぬのはあんたのためだけじゃない。この社会のためでもある んだ。いいか、ちゃんと死ねよ。さいなら
 女が泣き出すのを聞くのも鬱陶しかったので、おれはそのままガチャンと電話を切った。
 
 気が付くとほとんど口を付けないまま、煙草がまるまる一本灰になっていたので、おれは新しい一本に火を点けて、只でさえ煙っているひとりの部屋の天井め がけて、煙を噴き上げた。
 3ヶ月前くらいだったろうか。この手の間違い電話がおれの部屋の固定電話に掛かってくるようになったのは。

 おれの知らないところで、どこかのだれかが、ミスをした。

 多分、自殺防止の電話相談窓口のようなものなのだろうと思う。その電話番号が間違って印刷されて、新聞か雑誌に載ったか、或いはネットに 上げられたかなんかして……今にも死にそうな声を出す男や、さっきの女みたいに、人生の大半を不平不満をぶつくさ呟くことに費やしているよう な女から、電話が掛かってくるようになった。はじめのうちは、おれも親切に対応していた。

 “あの、間違い電話みたいなんですけど、どちらにお掛けですか?”
 “あの、えっとそちら、●△−6832ー4775ですよね? ムヤミニ、シナナイですよね?”
 “いえ、●△−6382−4771です。ムヤミニ、シナナイですが、最後の番号が違いますよ”
 “ああ、夜分失礼いたしました。間違い電話でした、すみません”
 “いえ、結構ですよ”ガチャン。

 しかし、電話は鳴りやまなかった。
 人間というものは、誰も起きていないような時間に一人で起きていると、何だか死にたくなるものらしい。
 
 「……会社をリストラされまして……」40代会社員・男性。午前3時
 「……受験勉強に集中できなくて……」高校生・男子。午前4時
 「……彼氏にひどいフられ方をしちゃって……」27代後半・OL。午前2時
 「……姉や妹に虐げられてるのよ……」30過ぎのさっきの女・職業不詳。
 
 泣きながら掛けてきて、こっちが間違いだと告げる間もなく、一気にまくしたてる奴も多かった。
 おかげでおれは不眠症になった。会社に勤めている頃は、腹が立った。電話のコードを抜いておこうか、とも考えるようになった。とにかく ひっきりなしに掛かって来るのである……いい加減にしてほしかった。
 一週間で8本もの電話が掛かってきた…電話の相手に“間違い電話だよ!”と怒鳴るのにも 疲れてきた頃である…おれは会社をクビになった。

 理由? まあいろいろだ。一身上の都合ということにしておいてくれと会社にも言われた。

 別に間違い電話のせいじゃない。
 しかし、仕事をクビになってから……おれ自身も知らなかったようなおれのなかの底意地の悪さが、おかしな考えを起こさせた。
 連中の悩みを、ヒマつぶしに聞いてやるっていうのはどうだ?
 一応は、話を聞いてやる。一通り聞いてやってから……さっきのように相手をドン底に突き落とす。
 これがなかなか痛快だった。
 ひとり暮らしと失業が、おれの心をさらに貧しく、醜く変化させ、確実に荒ませていた。
 
 さて、今日もなかなか痛快だった。
 女はどうなるって? おれの知ったことか。まあ、おれが助言してやったように、あの女が自殺するとはとても思えないがね。たぶん女は、あの 調子でグチを散々たれ流しながら、老いさばらえていくのだ。
 多分そのまま、80歳か90歳まで生きるだろう。
 
 おれは煙草を吸い終わると、首を鳴らしてから、部屋の明かりを消し、万年床の中に潜り込んだ。
 とてもぐっすり眠れそうだった。
 
 …おれが眠りに落ちかけたその時、また電話のベルが鳴った。
 さっきの女だろうか? それともまた別の誰か?
 さっきの女でかなりお腹いっぱいになったので、今晩はもう充分だった。
 しかしまあ……明日の朝になにか特別の予定がある訳じゃなし……おれは受話器を上げた。
 「もしもし?」
 「……あ…………もしもし……」
 小さな小さな、消え入りそうなか細い声だった。

 それがおれと薫との出会いだった。
 

 
 

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