痴漢環境論

作:西田三郎


■8■ 肉体に還る

 F子の告白(いや、本人はそんな大それたつもりはまるでないだろうけど)を聞いて、わたしも少なからず動揺していたことも事実だ。
 そしてi-podの充電を忘れていたせいで……音楽で雑音をシャットダウンできなかったことも、その要因かもしれない。

 翌日の通勤時間……わたしは満員電車の中で、めずらしく自分の『肉体』の中にいた。

 いつものよに、うまく“浮く”ことができなかったのか……あるいは、わたしが自分の意思で“浮かず”に満員電車を味わおうとしていたのかわからない。そ んなわけで、ほとんど10年ぶりに……わたしは朝の満員電車の息苦しさや汗のぬめり、人いきれ、身体と身体との間に挟まれる圧迫感……それらを総合した不 快感の中にいた。 
 やはり……10年ぶりだからと言って、こんな不快で不自由な環境、懐かしくともなんともない。
 しかしまあ、たまには俗世の人間が回避できずに味わっている苦痛を、ちょこっと味わってみる、というのは新鮮かもしれない。
 ちょっとM的な感覚で。

 列車がカーブを曲がり、身体全体に十数人分の体重が掛かった。
 腰から上があらぬ方向に曲がり、わたしはまるでラジオ体操の“腰を左右にひねって捻りの運動”をしている途中ような姿勢で身体を固定されてしまった。これは きつい……次の駅まで、なんとかこのムリな体制を立て直せないものだろうか……と考えていると……わたしの春物のフレアスカートのお尻を、ちょん、とつつ く感触があった。あれ、と思っているうちに、ちょん、ちょん、の回数は多くなり……やがて手のひらがお尻全体を撫で回し始める。

 「やばっ……

 わたしは目を閉じて、『浮け、浮け、浮くんだわたし』と何度も心の中で念じたが……。
 やはりバッハの旋律がないせいか、昨日のF子の話のせいか、さらに言うなら乗り込む前から“浮く”準備を整え得ていなかったからか……わたしの精神は肉体に囚われたままで、逃げ出すことはできない。
 
 「え、えっ……」

 昨日のF子がわたしに憑依したのだろうか。それとも長年、“浮く”ことで痴漢に対する完全な無抵抗主義を貫いてきたせいだろうか。わたしは身動きで抵抗 や拒否の意思を示すことができなかった。ただ、まさぐられるお尻の感覚がダイレクトに全身をかけめぐる。気が付けば……痴漢の手はスカートの中に侵入して いた。

 どあつかましいタイプの痴漢だ。

 あっ……ちょっと……待って……いつも、上空から眺めているだけで肉体に任せっきりにしていた嫌悪感をダイレクトに精神で感じるというのは、まるで焼けた鉄を押し付けられたような刺激だった。
 
 刺激?……やだわたし、何を考えてんだろう。

 「んっ……」

 “ひねりの体操”のポーズで身体を固定されているわたしは、太腿さえ自分の意思で閉じることができない。 どあつかましい痴漢は、これまでのどあつかましさとは反比例する、微妙に丁寧で、遠慮がちで、やさしいタッチで……パンツのクロッチ部分に触れた。

 ズン、という(頭の中の)重低音とともに、全身に戦慄が走る。
 ええっ……どうなってんの。わたしの身体。

 布の上から入口をなぞられると……ぶるぶるっ、と腰が震え、瞬く間に身体の奥、腰の中央あたりの器官が急に再稼働して、働き始めた。
 いいって……いいって……働かなくていいって……。
 最後に男とマジメにセックスしたのって、どれくらい前だっけ……この器官をフル稼働させて生産される粘液を、思う存分溢れさせたのは……ええっと……確か……半年前。そう、もう半年も前だ。
 だからって……何をそんな、きのうF子の話を聞いたからって……痴漢に触られてる、ってだけでこんなに張り切って稼働するんだ。
 
 指が布の上を往復する。
 あ、あ、あ、あ……。
 また腰が、ぶるぶるぶるっと震えた。

 布をなぞる痴漢の指から、感動と歓喜が伝わってきて、それがわたしの脳も伝わる。
“なんだこの女、喜んでやがるじゃねえか”みたいなゲスなセリフが頭の中で音声化される。
 指の往復がどんどん、どんどん早くなって……わたしはブラウスの背中に汗をかきはじめる。呼吸が乱れ始める。ゾクゾクとした痺れが、わたしの意識をどんどん浸食していく。

 こんなふうにF子も昨日、感じたのだろうか。
 あのいやらしい男好きのする身体を震わせて、痴漢を喜ばせたのだろうか。

 いや、いやいやいや。わたしはF子みたいな、ドン臭い女ではない。
 この10年間、満員電車の中で、精神を“浮かせる”方法により、ずっと満員電車に乗っているという事実からくる苦痛も、ときおり伸びてくる痴漢 の手から受ける屈辱も、『環境』として無視することで、それに適応してきたじゃないか。
 それなのに、それなのに、何だろうか……今日のこの感じは。
 
 わたしは痴漢の指にあわせて自分で腰をゆすり、どんどん液を溢れさせ、下着を濡らせている。
 だめ、だめだめだめ……これじゃ、これじゃあたし、F子みたいになっちゃうじゃん?

 ……ひっ!

 痴漢の指がわたしの下着を散々湿らせたことに満足したのか、ぬるり、と布の脇から侵入してきた。
「あっ……はっ……」
 せき止められなかった声が唇から洩れたので、わたしは自分の口を手で覆った。
 うそうそ、うそでしょ……ちょっと……これ……シャレになんないって……。
「んっ!」
 ずぶり、と指の先端が溢れている入口に少しだけ忍び込んだ。
 そしてそのまま……表面をゆっくり泡立てるように、溢れる液を入口の周辺に塗り広げるように指がわたしの身体の外と中を滑っていく。
「いっ……やっ……」情けない。情けないことを口に出してしまった。「……やっ……やめて……」
 それも一番、痴漢が喜びそうな口調で。当然、痴漢はその声に、さらに調子づいた。
 あっという間に、痴漢の指はわたしの感覚の先端の場所を探り当てる。
……もう……ダメだ……
 わたしは観念して……指の動きと同時に押し寄せてくる激しい感覚に身を任せた。

 わたしの精神は、それを求めていたんだろうか……?
 これまでの10年間、わたしはその苦痛も喜びもすべて肉体にまかせて、好きにさせていた。
 肉体を身代わりにして、精神は屈辱感や恥ずかしさや怒りから、精神を守り続けてきた。
 ここにきてわたしは、自分の肉体に復讐されているような気がする。

 あっ……あっ……あっ……あっあっ……。

 ダメだ。
 完全に管制権は痴漢の指にある。肉体をカタパルトにして、精神が宇宙に向けた発射態勢に入っている。
 秒読みが開始される……十、九、八、七、六、五、四、三、二、一……。
 
 発射!の合図の瞬間に、がしっと左手首を掴まれた。
 気が付くと、電車が駅についていた……会社の最寄駅だ。
 わたしはその手に引っ張られ……電車を降りていた。


 

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