童貞スーサイズ

第四章 「
アウト・オブ・ザ・ブルー、イントゥ・ザ・ブラック



■第34話 ■ スーサイド・ボックス(ブルー)
「これは……?」
 芳雄は二つの段ボール箱の前で、工藤とドウ子を省みた。
 工藤は薄笑いを浮かべながら芳雄をまるでテストにでも掛けているかのような顔で見つめ、ドウ子のほうはまったく別の世界にでもいるかのように丁寧に蜜柑の薄皮を剥いていた。
 大画面の中では父の二本の指が突き出されたまま静止している。
 その指はドウ子の1年前の粘液でぬれ光っていた。

「……うちの商品だよ。どっちの箱も一万円ポッキリ」工藤がひと房の蜜柑を唇の手前で止めて言う。「どちらを選ぶかは、お客様の自由。我々は何も強制しない」

 芳雄は注意深く、工藤に言われたとおりに青いガムテープで梱包された蜜柑箱の方に手を伸ばした。
 ここは密室で、どうやらこの場では全ての主導権を掌握しているらしい工藤も暢気にコタツで蜜柑を食べている……ドウ子もしかりだ。
 まさか、爆弾ということはあるまい。
 
 箱を持ち上げてみる……思った以上に、その箱は軽かった。

 「ほら、開けてごらん」工藤がみかんをくちゃくちゃ噛みながら言う。目を離したすきに、あのひと房の蜜柑は工藤の口の中に消えたらしい。「安心しなよ……びっくり箱じゃないから」
 工藤が笑い、ドウ子は少しだけ口の端をゆがめた。
 芳雄は青いガムテープを剥がした。
 たとえ中から生きたイタチが飛び出してこようと……決して悲鳴を上げたりはしないぞ、という決意のもと。

 箱を開ける……箱一杯に詰まっていたのは、10錠ずつの錠剤を納めた薄緑色のシートだった。
 それぞれが10シートずつ、輪ゴムで丁寧に纏められている。
 芳雄はそのシートと、そこに納められている錠剤に見覚えがあった……が、当然それが何を意味するのかはわからない。

 芳雄はそのひと束を手に取る。
 シートには、古臭い書体で“ロプヒノール”と書かれていた……そうだ、これはあの樋口が……今夜、小銃乱射の殺人狂になった樋口が、吐き戻していた錠剤だ。また……大柳とふたりで、この錠剤を一緒に飲んだ。様々なその他の薬品と一緒に……そして、ドウ子とも。

「……中期型睡眠薬」工藤が言った「眠れない人が飲む薬だ。薬自体は、その程度のものさ。有害でも何でもない」
「………でも、この量じゃ……」
 芳雄は箱一杯のロプヒノールを見下ろす。
「……そう。でも、それだけの量を一気に飲まないと、死ねない」と工藤。「まあ無理だけどね。途中で意識を失って……目が覚めたら病院ってのがオチだ。普通はね」
「自殺するために……こんなものを一万円で?」芳雄は混乱しながらも錠剤のシートを握り締めた「……確実に死ねる可能性もないのに?」
「ああ……例えば……」工藤は綿入れの懐から、小さなカプセルをひとつ取り出した。「これは……シアン化カリウム……いわゆる“青酸カリ”だ。 名前くらいは知ってるね? ……何でこんなものを持ってるかって? ……そりゃ、僕にもそれだけの覚悟はあるって事さ……まあそれはいい。例えばこの青酸 カリだと、これだけの量があれば確実に死ねる。青酸カリの致死量は、0.2グラムだったかな? ……これ一錠をコップ一杯の水に溶かして、それを流しに捨 てる。さらに水洗いしたそのコップにまた水を注ぐ。その水を飲んでも、それでも死ねる」
「すっげー」
 ドウ子が口を挟む。当然その声に感情はない。
「じゃあなんで、その……青酸カリの方を売らないんだ?」
 芳雄は誰だってそう問うであろう、当然の質問をした。 
「そこまでの覚悟のある人間は、ウチの顧客として相応しくないからさ」青酸ソーダのカプセルを懐に仕舞いながら、工藤が答える。「……人間がひとり、自殺 を決心したとする。しかし、決心した後、すぐ自殺を実行できる人間はいない。……人間は弱いものだからね……ほとんどの人間が思い悩むもんだ……本当に死 のうか、それとも死ぬのをやめようかって……で、思い悩む時間が長くなればなるほど、その決心は薄らいでゆく。心理学者が面白い統計を出してるんだけど ね、そのタイムリミットは、たったの3時間だそうだ」
「3時間?」
「そう。悩みに悩んで、3時間悩みぬいた結果、人間は死ぬのを諦める……つまりこういう事だよ……人間の決心というものは、それほど脆いものだ。多くの人 間はそうなのさ。一気に燃え尽きるよりは、その後の何の望みも希望もない人生をだらだらと生きて……くすぶって、消えていくのさ」
「あるいは、何回も何回も同じことを繰り返すか」ドウ子が会話に入ってくる「……結局そういう人間は死ねないけどね。自分がカワイソウ、カワイソウって言いながら、その後もだらだら薬を飲み続けて……あっはっは、バカみたい」
 
 ドウ子はケラケラと笑いながら、次の蜜柑に手を伸ばした。いったいこの連中はいくつ蜜柑を食べるつもりだろうか?

「それだけの睡眠薬を一気に飲めば……まあ運が良ければあの世にいける。事実、成功例もあるよ」と工藤。「……君のお父さんは、それを成し遂げた」
 工藤はそう言うと、大画面……濡れた二本の指を突き出す父の姿を無表情に見つめた。
 芳雄は箱一杯の薬を見下ろした……これだけの量を一気に?
 とても信じられない。
「なかなかできることじゃない……誰も彼もが、君のお父さんみたいに強い覚悟を持ってるわけじゃない……その量を見れば、わかるだろ?」
「でも……」芳雄は慎重に言葉を選んだ。「……それじゃ、詐欺じゃないか。これを1万円出して買う人は、死ぬためにこれを買うんだろ?……それで死ねないんじゃ……インチキそのものじゃないか」
「おいおい、人聞きの悪いことを言わないでくれよ」と工藤。顔にはあの冷笑が張り付いたままだ。「僕らが自殺を奨励してるなんて、誰が言った? ……年間 30000人も無意味に人が死んでるんだ……それは言ったかな。まあ、僕らはこれ以上、その数を増やすつもりなんて毛頭ないよ。」
「もったいないからね」
 ドウ子がまた口を挟む。
「……じゃあなんでこんなものを売るんだ?」
 
 大丈夫、自分はまだまともだ。芳雄は心の中でそう呟いた。

「僕らが求めてるのは、そこまでの意思を持った人間じゃない。つまり、本気で死にたがってる人、死ぬ覚悟が十二分に出来てるような……君のお父さんほどの決意を持った人は、僕らの商売相手じゃないんだ。僕らが求めているのは、もっと煮え切らない人々さ……自殺しようと決心してから、3時間悩みぬいて……結局死ぬのを諦める、そんな普通の人々こそが、僕らの顧客なんだ」
「……昨日までの樋口みたいにね」とドウ子。
「煮え切らない樋口君は、そのブルーの箱を4つ買ったよ」工藤が歯を見せて笑う……工藤の歯はまるでよく磨かれた琺瑯のようだった。「……4万円……彼の生活を鑑みると、かなりの出費だったんじゃないかな。……でも、死ねなかった」
「……まあ、チンコの立たないヒモだからさ」
 とドウ子が笑う。

 “………すっごおおおい………奥まで、奥まで当たってるよおおおお………”

 階上から愛の叫び声が聞こえてきた。
 芳雄はこのブルーのガムテープで梱包された蜜柑箱を4つ抱えた樋口の姿を想像する。だめだ、絵になりすぎている。

「樋口くんがそうだったように、2つの箱のうちでブルーの箱を選ぶような人間は、死にたがっているだけで、実は死ねない。この世にやり残したことが あるって……錯覚でも、心の奥底ではそんな風に考えてるからさ」蜜柑をまたひとつ片付けた工藤は、タバコに火を点けた……補充したビタミンを、またタバコ で打ち消し、また蜜柑で取り戻す……それが工藤の生き方らしい。「……そこで、我々はそういう顧客に対して、もうひとつの商品を思い出してもらう訳さ…… そっちの細長い、黒いガムテープが貼ってある方の段ボール」

 芳雄は工藤の指差すその段ボールを見た。
 傘か……もしくは、サックスかトランペットが入りそうな細長い箱だ。

「開けてごらん。それが我々のもうひとつの商品だ」そして、工藤が付け加える「……まあ、そっちの方が、主力商品と言ってもいいかな」

 

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