童貞スーサイズ
第四章 「アウト・オブ・ザ・ブルー、イントゥ・ザ・ブラック」
■第39話 ■ 湯の中の乙女
ビデオはそこで終わっていた。
画面は闇に覆われ、父のニヤケ面もぐったり弛緩したドウ子の姿もそれにかき消される。
芳雄は黙ったまま大画面スクリーンを見ていた……いくら見つめて いても、もう続きはなさそうだ。
エンドロールは上がった……ドウ子は今、この家の風呂にいる……そして父はもうこの世にはいない。
“……ね、ねえ……今度はそっち……いや、そっちじゃなくてこっち……うん、そう!それ!そこ!!もっと!……あっ………あ、ああああああ”
階上からまた愛の声が届いてくる。
恐らく芳雄がビデオを観ていた間にも、愛は同じ調子で叫んでいたのだろう。
ただ芳雄の注意が画面に引き付けられていただけの話だ。
隣で泣いていた工藤が大きな音を立てて鼻を噛む。
「愛も、エロスも、怒りも、悲しみも、優しさも、厳しさも、哲学も………すべてがこのビデオには詰まっている……そうは思わないかね?」工藤は言った「これを遺されたお父さんの気持ちを……少しでも理解できたかな?」
芳雄は答えた。
「…………ぜんぜん」
できるだけ素っ気無く答えたつもりだったが、事実は逆だった。
もちろん……雲が晴れるように、盲人が奇跡によって突然光を感じるように……芳雄の心に何らかの“回答”が明確な形を伴って現れたわけではない。
しか し、芳雄の心の中では巨大な“真理”の影が……水の中で固まっていく油の塊のように、ゆらゆらと漂いながら大きくなっていく。
父の言う“6歳の夜”のことなど、どの記憶の書架をあたってみても見つけ出せそうにもない。
人間は人生において経験してきたことのほとんどすべてを忘 れていくことによって日々を生きている。
そうしないと頭の中が余計な記憶で一杯になり、今を生きることができなくなるからだ。
ただ、自分が無意識のうちに不要と感じて捨ててしまった記憶が他の人間にとっても無価値であるか否か……?
それは誰にも保証することができない。
父は8年前の記憶にこだわり、自分はそれをすっかり忘れていた。
少なくともそれは……脳に仕舞いこむような価値ある記憶ではなかった……3歳の頃の夢 遊病の最中に表出した服装倒錯。
その後10年間、それが芳雄の意識に表出することはなかったし、そのことを父から伝えられた今も、その情景が映像的に芳雄 の中に蘇ってくることはない。
ただ……この忌まわしくも呪わしい秘密組織、クラブ・ニルヴァーナに潜入することを決心した際に……不意に芳雄の脳裏に浮かんだ“姉の服を着て女の子に なりすます”という突拍子もないプランは、一体どこからやってきたのか? ……その後、あのホテルでほんものの女の子のように大柳に、大西に、ドウ子に辱め られ、そのときに感じた生まれて初めて味わったような陶酔は、あの瞬間に突然芳雄の中に芽吹いたのか? ……そして昨夜、あの仮面の男たちにドウ子とともに 弄ばれたあの時、短いスカートのセーラー服を着せられたときのときめきは何だ?
頭の中の記憶はそれこそ日々更新され、不要なものは失われていく。
しかし躰に巣食う記憶はともすれば一生……その人間の深淵に根付き、再び発芽する時を待ち続ける。
父は自分の死の真相を自分に追求させる過程において、芳雄の中に眠っていたその性質が呼び起こされることを願っていたのだろうか?
そして、そのことがその後の芳雄の人生を本当の幸福に導くと考えたのか?
「君は……」工藤が口を開いた。「もはや何も恥じることはないんだ。何を恐れる必要もない。お父さんも仰っていただろう? ……人間、ほんとうに自分 が求めているものにたいして、最大限に誠実に生きることが一番の幸福なんだ。ある者は……若い女の子と享楽的にセックスを楽しみたいと求め、ある者は女の 子の服を着たいと願う……ほんとうに心から求めるものがある人間は……つまり、君や君のお父さんのことだけど……人より幸福だ。さらに言うなら、その欲求 の正体が何であるか、それを死ぬまでの間に気付くことが出来た人間は……ほんとうに幸運で幸福なんだ」
「………」
工藤が話し出すと……また頭の中の渦巻きはじめる。
「しかし、ほとんどの人間はそうじゃない。ほとんどの人間が自分の本当の幸福を求めることをせずに……いや、自分の本当の幸福が何であるかさえ気付 くことなく……無意味で無味乾燥な人生を浪費する。そして、どうしようもなくなってから……人生そのものを呪うんだ。そして、そんな人生を自分に課した、 この世の中全体をね」
「…………だから?」
「……だから……」工藤は新たな蜜柑を剥き始める。「……我々の出番となるわけさ」
工藤はそれから、無言で蜜柑の咀嚼を続けた。
砂嵐を映すテレビから、ノイズだけが部屋に響き渡る。
今は考えるときなのだろうか? ……芳雄はぼんやりと考えた。
しかし考えるといったって……何を?
この悪徳と退廃の権化のような男と共に、世界を破滅に導くような大犯罪に加担すべきか?
もしくは……今目の前にあるこの自動小銃で、この男も、上の階に 居る仮面の男たちも、大西も大柳も……もはや救いようのない哀れな愛も……そして風呂に入っているドウ子も皆殺しにして、この家から立ち去るべきか。
どっ ちも今となっては、とても容易なことのように思われた。
もはや自分には帰るべき道はないのだ。
「ドウ子ちゃん……遅いね」だしぬけに工藤が言った。「……大丈夫かなあ?」
そういえば……ドウ子が風呂に行ってから随分経つ。
女性の入浴時間がどれほどなのか、母と姉の場合しかサンプルケースを持ち得ない芳雄には判断つきかねたが、確かにドウ子の入浴時間は少し長すぎるように思えた。
工藤がコタツから立ち上がる……反射的に芳雄も腰を上げていた。
工藤とともに部屋から廊下に出た。
“……あああんんっっ……だめだって……ダメだよ、小さくしたら……ねえ、まだいけるでしょ?……まだまだいけんでしょう?………ねえ、もっとちょうだいったらあああ………ほら、おっきくしてよ。今すぐおっきくしてよってば………”
“いい加減にしろこの底なし沼!!!”
階上からまた声が届いてくる。
廊下を隔てた正面のドアを開けると、脱衣場があった。
床にドウ子が脱ぎ散らかしたジーンズと黒いカーディガン、Tシャツに靴下……それに薄い灰色のブラ ジャーと、あまり気合の入っていないゴムの伸びたコットンのパンツが散乱している。
玄関先での靴同様に、ドウ子には“後のことを考えてきちんと整 頓する”という観念はまったく存在しないらしい。
「ドウ子ちゃん、大丈夫?」工藤が浴室の擦りガラスをノックする。
返事はない。
「……ドウ子ちゃん、だめだよ……お薬飲んでそんな長風呂しちゃあ……おじさん、ドア開けちゃうぞお?」
ノック。返事はない。
工藤が肩を落として芳雄を省みる。そしてにんまりと……好色な笑みを浮かべる。
それはその日工藤がはじめて芳雄に見せた、人間的な表情だった。
「ドア、開けちゃう?」と工藤。
「………」どう答えればいいのかわからず、芳雄は足元を見た。
と、脱ぎ捨てられたドウ子のパンツと目が合う……そこからも目を逸らさねばならない。
「お邪魔しまあす……」
工藤が浴室のドアを開けた。
漂う湯気に思わず目を瞑った芳雄だったが……自然とその視線は浴室の中に注がれた。
クリーム色の浴室内の浴槽の水面下に、ドウ子の伸びやかな肢体があった。
水面にはぶくぶくと泡が立っている。
ドウ子は広い浴槽の中で両手を左右に広げ、両脚をまっすぐに揃えた格好で沈んでいた。
まるで見えない戒めに磔にされているようだった。
芳雄は湯の中でドウ子の陰毛がそよぐのを見た。
空気中ではあらぬ方向にぴょんぴょんと跳ねる癖毛が、水中で陰毛と同じリズムでそよぐのを見た。
ドウ子は水中で目を閉じていた。
その表情は芳雄に、先ほど見せられたビデオの最後の場面を想起させ、節操のない下半身は早くも反応をはじめていた。
「…………ほーら、言わんこっちゃない」
工藤が呟く。
芳雄はこんな風景をどこかで見たような気がした。
先ほどのビデオではない……あれはいったいいつだったっけ……?
そうだ。
確か中学に入ったばかりの、美術の授業で見せられた一枚の絵だ。
それは確か入水自殺した女の姿を俯瞰して描いたものだった。
その女の名前は……オフェーラ? だっけ? 違う フェラーリ?
はっきりと思い出せない。
<第五章につづく>
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