童貞スーサイズ
第一章 「ザ・ガール・ウィズ・ノー・ネーム」



■第9話 ■ 僕には何もできない

 とにかく……童貞を失う前に後ろの処女を失う危機は、なんとか乗り越えられたようだ。

「……ごめんな、ボク。おら、ほんとに情けねえよ……本当の役立たずだなあ……オラ」
 樋口と名乗ったその男は、ひとしきり泣いたあと……ぐにゃりと垂れ下がったままの自分の陰茎を仕舞いこんだ。
 そして芳雄のパンツとズボンを履かせると、しきりに詫び始めた。
 この隙に逃げるべきだろうか……芳雄の理性はそう訴えたが、まだ 脳を直撃した怪しげな薬物の影響なのか、無意識の声はこのまま流れに任すべきだと芳雄に命じている……こんな場合、どちらの意見を聞くべきなのだろうか。

 理 性に耳を貸すべきか……そして、それによって何を得られる?
 いや、それじゃ何も得られやしない。
 芳雄は無意識の声に従うことにした。

「……あの……よかったら、話を……聞かせてもらえませんか?」
 そう言う自分の声が、少し上擦っていることに気づいた。
 先ほど樋口の乱暴な愛撫を受けたためだろうか……? そう思うと、何故か少し赤面した。
「……とりあえず、ここから出っか。オラのヤサで、話さねえか?」
「ヤサ?」
「オラん家だよ」
 今し方、自分に怪しげな薬剤を吸引させて、肛門を犯そうとした男である。そんな男の家に、来るか、と聞かれているのだ。
 やはり……全理性を動員して、その提案にノーをつきつけるべきなのだろう。
 しかし、薬剤の効果は芳雄から危険余地の感覚を奪い、その好奇心を倍増させていた。
「お……お邪魔でなければ……ぜ、ぜひ」
 今日は朝帰りになるだろう。母や姉に、どんな言い訳をしようか……まあ、夜は長いんだし、そのうちに聞くも涙、語るも涙の言い訳を思いつくだろう。
 それよりも何よりも、芳雄はこの樋口と、あの“心中少女”との接点を探らなければならない。
 ふらふらと駅を出ていく樋口に続いて、芳雄は夜の街に踏み出した。
 
 20分ほど危なっかしい足取りで歩き続ける樋口の後についていくうち、気がつけば、迷路のような細道に入りこんでいた。
 ただ樋口の背中を追う一方だったので、芳雄には今自分がどこに居るのか、検討もつかない。
 四方を2階建てか3階立てのアパートの錆色の壁が覆っている。 よく刑事ドラマで刑事が聞き込みに訪れるような界隈だった。
 こんなところがまだ日本にあったんだな……と芳雄は思ったが、同時にそんなことを考えるのはこの界隈で暮らしている人々に失礼 か、とも思った。
 昼でも日差しの当たらないだろう、あばら屋といっても差し支えのない建物の中でも、それぞれの部屋で様々な暮らしが存在するのだ。
 
 いま、芳雄の中では不安よりも……どんどん知らない世界に足を踏み入れていくこと対する亢奮のほうが勝っていた。
 
 と、突然……樋口が道ばたに蹲り、ゲロを吐く。
 激しい嘔吐だった。
「大丈夫ですか……?」
 芳雄は駆け寄り、樋口の背中をさすった。
「だ……大丈夫だ」だが、樋口がさらに嘔吐する。「うっ、うげえええええええええええええええ
 
 目を逸らそうとしたが、樋口の吐瀉物を見て驚いた。
 吐瀉物の中に、消化されずに吐き戻された大量の錠剤が混ざっていたのだ。
 
「こ、これは……?」
「………ああ、これ」樋口が唇から胃液の糸を滴らせて言う「睡眠薬……ロヒプノールだあ」
「………」
 芳雄は愕然とした。
 そう、その薬の名前には聞き覚えがあった……警察の話によると1年前……父はこの薬剤の過剰摂取により、死亡したのだ。
「……やばいですよ。こんなに飲んじゃ……死んじゃうんじゃないんですか?」
 言いながら樋口の背を撫でさする。
うげえええええええええ」樋口がまた吐いた。黄色い胃液に半分熔けかかった白い錠剤が十数個、吐瀉物に混ざって転がり出た。「だ……大丈夫だ。ちゃーんと、用法・用量は守ってるだ」
 
 とてもそんなふうには見えない。
 ひとしきり吐くと、樋口はまたゆらりと立ち上がり、さらに危なっかしい足取りで歩き始めた。
 芳雄もあわててその背を追う。
 
「あれだけの量の薬を、ホテルで飲んでたんですか?」芳雄は樋口の背中に呼びかけた。
「んだ」芳雄を振り返らず、樋口が答える。
「な……なんで、そんなことを……?」
「………」樋口は暫く無言で歩いていたが、やがて……ポツリと言った。「……ちと、死んでみるためだよ」
「死んで……みる?
 
 それ以上、樋口は答えない。
 やがて、前方に3階建てのアパートが見えてきた。
 長年の雨風が、ドブネズミ色のコンクリートの壁に抽象的な模様を作っている、
「あれだ、オラのヤサ」
 通りに面した階段を、樋口がよたよたと登っていく。
 芳雄は今にも踏み崩れてしまいそうなその頼りないコンクリートの階段を、注意して登った。
 樋口の部屋は3階にあった。3階フロアには4つの部屋があり、ただでさえ細い廊下を、それぞれの住人が並べた鉢植えの植物や、自転車、三輪車、子どもの玩具などのガラクタが、さらに歩きづらいものにしている。
 樋口の部屋は一番奥だった。
 
 樋口が錆にふちどられたスチール製のドアを、拳でガンガンと叩く。
「おい、オラだ。開けろ」
 しばらくの沈黙の後、ドアの中からチェーンを外す音……そして鍵を開ける音がして、ドアが開く。
 その隙間から……その女が顔を出した。
「……どこ行ってたのよ」
 女の歳は20代前半くらいだろうか。しかしその眠そうな厚ぼったい目と、陰険な目つきが、女を10は老けて見せていた。
 それにしても……芳雄は愕然とする。
 女はその茶色く染めた髪をツインテールにして、青いカラーのついたセーラー服を着ていたのだ。
 あまりにも異様だった。
 先ほど樋口 に吸わされた怪しげな毒物の後遺症で、幻覚でも見ているのではないかと思えた。
「誰よ……その子」
「ああ……」樋口は女に目線を合わすことなく言う。「トモダチ、オラの、ダチだ。電車が無くなったんで、今晩泊めてやるべと思って………」
 その女は戸口から顔を出したまま、芳雄のつま先から頭のてっぺんまでを、さも異様なものでも見るように眺め回した。
 そりゃ異様だろう。自分の男が、中学生の少年を連れて深夜に帰ってきたのだから、奇妙に思うのは当然だ。
 しかし、芳雄は女の怪訝そうな視線を浴びながら、反感を感じずにおれなかった。
“あんたの方がよっぽど異様だよ”と芳雄は思ったが、もちろん口には出さなかった。
「まあ、いいわ。上がんなよ」
 女がドアを大きく開く。
 樋口は戸口を少し背を屈めて中に入り、芳雄もその後に続いた。
 
 室内の光景に、またも芳雄は驚かされる。
 極端な直下型地震この部屋だけを直撃したあと、50人ほどの略奪者が部屋を荒らし回った、としても……ここまでひどいことにはならないだろう。
 2Kの部屋の床は、足の踏み場もないくらいにコンビニ袋に詰められ たゴミや脱ぎ捨てられた服で埋め尽くされている。
 テーブルや台所には、無数の汚れた皿が堆く積もり、至る所に薬剤の瓶や空になったタブレットが散乱してい る。
 嗅ぎおぼえのある臭気が、芳雄の鼻孔を直撃した……そうだ、これはあのトイレの個室で嗅いだ、樋口の口臭だ。

 ……しかしそれだけならば、ただの汚い部屋だ。それくらいなら、許容できる。
 その空間の中で、ひときわ怪しい瘴気を放っていたのは……部屋の隅に置かれた、デスクトップパソコンの周辺だ。
 パソコンは実に古い型の安物だったが、モニタの上にPCカメラが取り付けてある。
 そのPCカメラの前だけは、その他の部分を覆い尽くしているガラクタがきれいに取り除かれている。
 そして、脇の壁には3種類ほどの女子学生用制服、ナース服、スチュワーデスの制服など……さまざまな衣装が並んで掛けられていた。
 
 それらを凝視している芳雄に気づいたのだろう。
 女が勝手に説明をはじめた。
「ああ、聞いてないの? あんたの友達のこのクズ(そ う言って女は、樋口を指さした)、あたしのヒモなんだけどさ。ヒモの癖に、チンコが勃たないのよ……あ、それは聞いた? ……で さ、ろくな稼ぎもないから、あたしが在宅チャットレディやって稼いでんの。ホントは勤務チャットレディのほうがいいんだけど、生活かかってるしほぼ24時 間営業って感じ? ……案外、変態どもの人気者になっちゃって、忙しいのはいいんだけどさあ……ホント、昼も夜も。寝るヒマもないよ。それで、どうにかこ うにか食っていってんの。そんな あたしの苦労も知らずに、そのクズ(また女は樋口を指さした)は一日中ブラブラブラブラブラブラブラブラしてるわけ。そのクズ(またも女は樋口を強く指さす)が生きていけて るのは、あたしのお陰なの。そんなこと、判ってるよね、ええ? それでこんな時間までほっつき歩いて、訳のわからないガキ連れて帰ってきて……ね え? あんた? 自分の立場わかってる?? あんたはクズなんだよ? どうしようもない、何にもできない、何の役にも立たない人間のクズなの。わかってる???」
 
 その剣幕に、芳雄は無言でうつむいていることしかできなかった。
 こっそり隣の樋口に目をやると……樋口はガラクタだらけの床に、祈るように膝をつき……さめざめと泣いていた。
 
 セーラー服の女の繰り言は延々と続いた。
  いつまでもつっ立っているのはつらいので、芳雄はなんとか自分の座ることが出来るスペースを確保すると、そこに腰を下ろした。
 ゴミの山に跪いたままの樋口はめそめそと泣き続け、その巨体はますます小さくなっていくように見えた。
 女は恐ろしいまでの毒舌家だった。よくもまあ、一人の人間の尊厳をここまで焼き尽くすナパームのような言葉が次から次へと出てくるものだ。

 女は毒づき続け、樋口は泣き続けた。芳雄はまるで、その部屋に存在しないかのように放置され続けた。
 女の繰り言は果てしなく続く。まるで悪魔を封じ込めるか、蘇らせるための呪文のようだ。

 いつしか芳雄は……緊張につぐ緊張だった一日の疲れからか……その場に眠り込んでしまった。
 
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