電話問答 作:西田三郎 ■すこぶる都合のいい女
経理のタチバナとの関係がここまで続くとは思っていなかった。
タチバナが入社したのは3年前。おれがこの会社で勤めはじめて10年。結婚して8年。娘のユカリが生まれて6年。タチバナとつき合いはじめたのは1年前だ。だから、歴史からいうとタチバナとの関係が一番新しい。
タチバナは中途で入社した。入社したとき26だったから、今年29歳。おれは32歳。なんでつきあい始めたのかは、忘れてしまった。たぶん、おれの方から誘ったんだと思う。何せ、うちの会社には女の子がいない。女の子は、タチバナを入れてたったの3人。ほかの二人はこの3年間で4回ほど入れ替わった。3年間でずっと居るのは、タチバナだけだ。
うちの事務服は紺色のダサいやつだ。それを着て、今時髪も染めず、度の強い眼鏡を掛けたタチバナの印象はほんとうに地味だった。社内には女の友達もいないし、あんまりしゃべらない。時折しゃべっても、低い声でぶつぶつと、必要最低限のことしか話さない。
しかし、これがベッドの上ではそうではなかった。っていうのも、よくある話だろうか。
事務服を脱いで、普段着に着替えても地味この上ないのだが、さらにそれを脱ぐと、本当にいやらしい躰をしている。しかも、セックスに対しては信じられないくらい貪欲だった。いったいこんなことをどこで覚えたんだろう、というくらい、セックスに関してよく研究している。案外、地味な女というのはそうなのかもな。セックスの実体験が少なければ少ないほど、それに関しては興味が高まって、よく勉強するんだろう。だいたいおれとつき合う以前に、タチバナにそれほどの男性経験があったとは思えない。
そんなわけで木曜日はいつもタチバナとセックスする日だった。
いつの間にか、そんな風に決まっていた。これもまあ、日本国中で同じようなことをやっているやつがゴマンといるんだろう。時間をおいてそれぞれ会社を出て、会社から数駅離れた場所で待ち合わせ、食事してホテル。そんな感じだ。
その日、焼き肉屋でマッカリを飲みながらミノをつついているときから、タチバナは機嫌が悪かった。と、いうのもおれが今週末、数ヶ月ぶりに週末タチバナと出かける予定だったのを突然キャンセルしたからだ。
完全におれの失敗だった。娘のピアノ発表会があることを、すっかり忘れていたのだ。
タチバナはずっとぶすっとしたまま俯き、口を効かない。
「怒んなよ」おれは言った。「なんでそんなに拗ねるわけ?しょうがないじゃん」
「別に…」タチバナが言った。「怒ってないよ」
ただでさえ愛想無いタチバナは怒ると本当に可愛げがない。いや、そうでもないか。ふくれっ面をしているのも何となくそれはそれで可愛い気もする。普段、あまりにも感情の起伏が見られないから、そんな風に感じるのかもしれないな。
「怒ってるって。だって、喋んないじゃん」
「別に…喋る話題がないだけ」
そういうとタチバナはタレにひたしたミノを別に口に入れるでもなく、箸でぐねぐねといじり回している。どうも今日は一筋縄ではいかなそうだ。おれはいろいろと心にもないことを並べて、必死でタチバナの機嫌を取った。
しばらくすると、酒も回ってか、少しだけタチバナは喋るようになった。
それでも相変わらず機嫌が悪い。チクショウ、今日はどこまで手を焼かせるつもりだ。おれはいい加減面倒臭くなってきた。まあ、いいか。どうせこれから、ベッドでこの借りを返してもらうからな。ファックを通して仲直りするというのも、なかなか悪くないものだ。
おれがそんな邪なことを考えていると、不意にタチバナが口を開いた。
「ねえ、やっぱり、奥さんって可愛い?」
「へ?」タチバナを見た。なんだか意地悪そうな目で、おれを見ている。「何だよ、急に」
「やっぱ、奥さん、可愛いわけ?」
「そりゃ、まあね。結婚してるんだし」おれは適当に答えた。
「ふうん…」タチバナが薄く笑った。
なんだろう。“わたしとどっちが可愛い?”とか、愚にも付かない下らなねえことを聞いてくるんじゃないだろうな?タチバナはなにか、宙を見て意地悪そうに笑っている。変な話だが、その顔はこれまで見た中で一番魅力的だった。
「じゃあさ、娘さんって可愛いわけ?」タチバナが身を乗り出して聞いた。眼鏡の奥の目が、なんか輝いている。「ねえねえ?」
「つーか、当たり前でしょ。自分の娘なんだから」
「へーえ…」
タチバナはイタズラをたくらんでいる子どもみたいに目を宙に泳がせた。口が笑っている。一体何をたくらんでるんだろうか?まさか娘のピアノの発表会に押し掛けたりするんじゃないだろうな。
この手の女はそういうことをやりかねないから怖い。
「何だよ」おれは言った。「何かあるわけ?」
「別にい…」そういってタチバナはようやくミノを口にほうり込んだ。
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