インベーダー・フロム・過去
作:西田三郎「第2話」 ■もしもし
わたしと公一が暮らすマンションは市街地から遠く離れた郊外にあった。
早起きが得意な公一は、ラッシュを避けてわたしより1時間早く家を出る。
浩一が出かけた後、1人残されたわたしはいつも煙草を吸いたくなった。
浩一はわたしが以前、煙草を吸っていたことを知らない。
これは浩一がわたしについて知らないことの一つである。
その他、浩一はわたしについて知らないことがたくさんある。
わたしはぼんやりとベランダから空を見た。
千切れ千切れの雲が、薄いブルーの空にに浮かんでいる。
ああ、煙草が吸いたい。
だめだ、こんな時は何を見ても煙草が吸いたくなってしまう。
わたしはその衝動を振り払うため、とりあえず朝食の後かたづけをすることにした。
食器洗い洗剤を泡立てたところに、電話が掛かってきた。わたしは思わず舌打ちをした。この舌打ちも浩一の前では決してしない癖のひとつだった。タオルで手を拭いながら、非難がましく鳴り続ける電話に駆け寄り、受話器を取った。
「はい、清水です」
「太田伊佐美さん?」囁くような声だった。太田は、わたしの旧姓である。
「え…あの、そうですけど」誰だろう?わたしはその声に心あたりが無かった。
「あ、今は清水伊佐美さんだっけ」と電話の男。
「あの…そうですけど、どちら様ですか?」
「…オレだよ、オレ。声聞いて思い出せない?」男は急に馴れ馴れしい口調になった。
「あの…ちょっと、すいません。わかんないんですけど…」
「悲しいなあ、オレのこと忘れるなんて。ほんとに思い出せない?」
「…え…ええ、すいません」いつの間にかわたしは相手のペースに飲まれていた。
「じゃあ、さ、ヒント言うよ。いいかい?」
「…あの…」なんなんだ、この男は。
「ヒントその1。わたしは男です…あっはっは」
「…すいません、あの…」
「ヒントその2、わたしはあなたのイク顔を知っています」
「は?」思わず大きな声を出した。
「ヒントその3、あなたはバックから入れられるのが大好きです」
「切ります」
わたしは乱暴に受話器を電話機に叩きつけた。ああ、ようするに変態のいたずら電話か。忙しいときにイラつくことこの上ない。この手の電話は独身時代、独り暮らしをしているときに散々掛かってきた。変態というものは進歩しないものだ。
わたしが皿洗いに戻ろうとしたら、またベルが鳴った。わたしはまた舌打ちをしてから受話器を上げ、かなり険のある声で電話に出る。
「もしもし?」
「切るなんて非道いじゃないの、もっとお話しようよ」案の定、さっきの男だった。
「いい加減にしてくれます?」
「伊佐美ちゃん、髪、伸ばしたんだ。似合ってるよ。独身時代はショートだったのにねえ」
「え?」わたしは思わず反応してしまった。
「ショートで、ちょっとボーイッシュな感じだったね。でも今は、すっかり奥さん風だ」
「あの…」ちょっと背筋が寒くなった。この男は本当にわたしのことを知っているんだろうか。
そう、そういえばこの男は、何故かわたしの旧姓を知っていた。
「…ダンナさん、優しい?」
「…あの…あなた、誰なんですか?」
「…おれ?…おれは…」男はしばらく沈黙した。「あんたが忘れてる男だよ」
「…え?」のどか乾く。鼓動が高まる。
「…昨日も、おれの夢見ただろ?」
わたしはまた受話器を電話に叩きつけた。そのまま電話機のモジュラージャックを引き抜いた。
胸の鼓動がますます高くなる。耳の奥で、脈が早いリズムを刻んでいる。
何?今のは?
わたしの頭はますます混乱していた。
疑問その1…何故、男はわたしの名前と旧姓を知っているのか。
疑問その2…何故、男はわたしが結婚後、髪型を変えたことを知っているのか。
疑問その4…何故、男はわたしの夢を知っているのか?
わたしはしばらく電話の前で呆然としていて、仕事に遅刻しそうになった。<つづく>
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