童貞スーサイズ
第三章 「(ディス・イズ・ノット・ア)ラヴ・ソング」
■第25話 ■ ハンドル・ウィズ・ケア
昨夜も帰宅は午前様で母と姉に泣かれた……しかしそんなことはほんとうにどうでもいい。
母が喚こうが、姉が金切り声を上げようが、そんなことは芳雄にとってはよその国の戦争くらい自分には縁のないことのように思えた。
いや、ひょっとすると他国の戦争のほうが母や姉の言いぐさよりも自分にとって関わりが強いかも知れない。
一体自分には何が関わっていて、何が関わっていないのか、今の芳雄には本当にわからない。
少しずつ謎に近づいている気はするのだが……きのう背負っていた謎よりもずっと重く大きな謎を抱え込んだ気分だ。
昨夜ホテルのスイートで自分を責め立てた『先生方』と呼ばれる能面の男達、父の死の理由、ニール・ヤングの歌、“クラブ・ニルヴァーナ”を作ったという『会長』という人物の存在……そして一番の謎は、なんといってもドウ子そのものだ。
愚かにも自分は、彼女の本名を聞くチャンスすらみすみす逃してしまった。
また降りだしに戻ってしまったような気分だ。
そのことを実感するたびに、昨夜ドウ子に噛まれた少しだけ疼いた。
今はまた、ドウ子から渡されたあのオレンジ色のガラケーが鳴り出すのを待つ以外、自分にはするべきことがない。
ゆっくり、落ち着いて考える時間が必要だ……放課後、ひとりでにふらふらと足が校舎の裏に向かったのは、そのせいだった。
しかし、その場所は太田というもう一人の少女に大きく関わっている。
はっきり言って、芳雄は太田のことをすっかり忘れていた……桜の木の下で顔を真っ赤にして自分を睨み付けている太田の顔を見るまでは。
太田の顔は本当に真っ赤だった。
確かきのうの夕方、別れた時もこんな風に真っ赤だった……あれから20時間近くになるが、あれからずっと太田は真っ赤だったのだろうか。
それを思うと、芳雄は少し申し訳ないような気分になった。
昨日の夕方別れた時の太田も、今自分を睨み付けている太田も同じように赤かったが……その赤さが一体何を意味していて、その赤さが自分にどう関連しているのかさえ、芳雄には判らなかった。
昨夜、あの非常階段の影で太田は今と同じように真っ赤になりながらも、目を閉じ、切なげにその薄い唇を開いて、ひたすらに芳雄の唇と愛撫を求めていた。今の太田にはそんな甘美さはまったく感じられない。
いくら神経の弛んだ芳雄であっても、彼女が発しているのは激しい怒りのオーラだということくらいはわかった。
頭で理解するよりも身体の方が先に反応して、芳雄の足は太田の立っている桜の木の下から3メートル手前でひとりでに止まった。
太田は芳雄を睨んでいる……といより、目からの怒りのビームで芳雄を焼き殺そうとしているかのようだ。
これほどまでにあからさまな怒りと憎悪を、芳雄は人から受けたことがない。
最近、母と姉に罵られ、涙目で睨み付けられることが多いが……太田の眼差しに比べればそれらは春のそよ風のように爽やかに感じられた。
自分に対する母と姉の怒りがスプーンを曲げる念力ならば、太田の怒りは大海を真っ二つに割るモーゼの力である。
しばらく芳雄は足を前に進めることもできず、かと言って後ずさるわけにもいかず、棒立ちになって太田の怒りの視線を浴びていた。
気まずい、などという生やさしいものではない。
「……あたしに……」最初に低い声を出したのは太田だった。「あんた…………あたしに、なにをしたかわかる?」
「…………」
芳雄は俯いた。何をしたかは覚えているが、それがどういう意味を持つのか“わかっているのか”と聞かれればそれは別問題だった。
「……あたし、きのう、死ぬほどはずかしかった。わかる?」
太田の声は震えていた。
「………うん」
そうは答えてみせたが、太田がどう「恥ずかしかった」のかは、正直なところよく理解できない。
恥ずかしい経験なら、自分で言うのもなんだが芳雄はちょっと人には負けない自身があった。
ドウ子と出会ってからこっち、恥ずかしい経験は事欠かない。
たぶんそれは太田には決して想像もつかないし理解もできないだろう。
こんなことを想像できて理解できる人間など、この世に居るはずがない。
「あたしは……はっきり言って美人でもないし可愛くもない。性格も暗いし、人と話するのも苦手。自分に魅力がないことだって充分わかってる。だからきの う、あんたに好きだって言うことに決めたのも、すっごく悩んでから決めたの。いいかげんな気持ちで言ったんじゃないし、いい加減な気持ちで……あんたとあ んなことしたんでもない」
「…………」
わけがわからないがゆえに、太田に対する申し訳なさだけが芳雄の胸をぎりぎりと締め付けた。
太田が自分のことを好いているのも、それをうち明ける決心をしたのも、キスをさせてくれたのも太田の勝手と言ってしまえばそれまでだ。
だから頭で考えれば、自分にはまったく非はない。
しかし、それを頭で認識すればするほど、申し訳なさはさらに情け容赦なく心に食い込んでくる。
一体何が、自分を申し訳なくさせるのだろう、と芳雄は思った。
「……でも、それはあたしの勝手だったんだよね」
太田がそう言ったので、芳雄は自分の心を見透かされたようでぎくっとした。
「そんな……」
「好きだって言われたから、あたしみたいな相手でもそれを受け入れたんだよね。キスさせるから、キスしたんだよね。……それに……あたしがあんなことさせたから、あんたはあたしにあんなことしたんだよね。あんたはあたしが差し出したものを、受け入れただけなんだよね」
「というか……」
それに次ぐ言葉が、芳雄には見つからなかった。
「……いいよ、もう」そう言って太田はようやく睨むのを止め、視線を落とした「あたしがバカだった。あたしが勝手だったんだよ。あたしがへんな期待したからいけなかった。あたしがあんたに、『好きだ』って言ったら、キスさせたら……それからあんなことさせたら、どうにかなるって思ったあたしがバカで自分勝手だったんだね。人生、『やればなんとかなる』って訳じゃないのにさ。そんなことわかってるつもりだったのにね」
「……」
どんどん涙声になっていく太田の声を聞きながら、芳雄は消えてしまいたくなった。
何かが、自分には欠けていることに気づいた。とても大切な何かが。
「でも、あんた、あたしになにをしたかわかる? ……ねえ、これだけは聞いて。単に好きだって言われたから、キスさせる相手だから、あんなことさせる相手 だから、ただ与えられるままに受け入れたの? キスしたとか、おっぱい触ったとか、パンツの上からあそこ触ったとか……その、直接……触ったとか、あんた がしたことはそんなことだけじゃないの。そんなことはどうでもいいの。でも、あんた、ほんとうにあたしになにをしたか、自分でそれをわかってる?」
それだけ聞いて、芳雄は自分から何が欠けているのかに気がついた。そして愕然とした。
雷に打たれたようなショック、というのではない。そんな表現は、今自分が受けているショックを言い表すのにはあまりにも陳腐過ぎる。
だいたい雷に打たれたことのある人間なんてそう居るものではないのに、なんでそんな陳腐な表現ばかりが世の中に溢れているのだろうか。
少なくとも、これほどまでの衝撃は、経験したことがない。
それは、父が見も知らぬ女子高生のパンツに手を突っ込んでいるビデオを観たことよりも、ラブホテル街の路地裏で外人娼婦に強引にズボンを降ろされて性器 をねぶり倒されたことよりも、薄汚い駅の個室トイレでヤク中のチンピラに尻を掘られそうになったことよりも、その情婦に薬をもられて騎乗位で犯されそうに なったあげく手で射精させられたことよりも、女二人と男一人に弄ばれてそれを鏡で見せつけられたことよりも……あるいは目隠しされ、心惹かれる少女ととも に大勢の見知らぬ男たちの玩具にされ、少女の性器より突き出た双頭のバイブレーターを肛門に挿入されたことよりも……ずっと重く、鈍く、致命的な痛みを 伴った。
太田に対して、なぜ自分が申し訳なさを感じるのか。
それを感じる心が、自分にはないのだ。
ドウ子に噛まれた肩が、またもズキズキと痛み始める。
いや、今はドウ子なんてどうでもいい。芳雄は一切の思考を遮断した。
そして、太田の悲しみや怒りを感じることができない自分の肉体が、勝手に動くままに任せた。
太田がそれをどう受け止めるかはわからない。しかし今の自分には、太田への申し訳なさを示す言葉も思考もないのだ。
気がつくと芳雄は太田に駆け寄り、2本の腕をしっかりとそのか細い身体に巻き付けていた。
「えっ………」度肝を抜かれたらしい太田が叫ぶ「ちょっと………やめてよ! け、けだものっ!」
いかにも太田らしい、芝居がかったウソ臭い物言いだった。
いや、事実その通りか、それ以下なのだから仕方がない。
しかし、そんな言葉を選んで口にする太田が、芳雄にはいじらしく思えて仕方がなかった。
あまりにもいじらしいので芳雄は太田の肩に顔を埋めて、ぐりぐりと頭を降って擦り付けた。
「ごめん……」やっと言葉が出てくる。相応しいかどうかよくわからない言葉が。「……ごめん……ごめん………ごめん………」
「こっ……こんなのでごまかされないよ、こんなのじゃ、絶対………」
自分に言い聞かすように太田が言う。芳雄に抱きすくめられながらも暴れたが、その暴れようはかなり弱々しかった。
「……ごめん……ほんとうにごめん…………ごめん」
「ごまかそうったって…………ダメだよ、ダメなんだから………」太田の語尾は儚く消えた。
そしてじたばたしていた手は次第に大人しくなり、やがて芳雄の身体に巻き付いてくる。
太田は自分を赦してくれるだろうか。何としても赦してもらわねばならなかった。
その後、一生口を効くことが出来なくなるとしても、太田には赦してもらわねばならない。
芳雄は太田をきつく抱きしめる手を緩めて、肩に擦り付けていた顔を上げた。
そして、太田の顔を真っ直ぐに見た……真正面から見つめられた太田の、大きめの黒目が泳ぐ。
それで赦してもらえるかどうかはわからない……しかし、今はそれを言うしかないのだ。
「よかったら……」芳雄は太田に言った。「今夜、これから二人で遊びにいかない?」
太田は狐につままれたような顔をしている。
当たり前だろう。気でも狂ったのかと思われても仕方がない。
今夜はオレンジ色の携帯の電源も切っておこう。芳雄は思った。
そしてこれから二人で教室に行って、自分のロッカーに隠したあの大金を取りに行くのだ。
昨夜、別れ際にドウ子に渡されたあの大金を。
使い道がわからなかった金だが、まさかこんなにも早くその使い道を思いつくとは。
それにしても……何故こんなときでさえ自分は妙に静かすぎるのだろう。
芳雄は不思議でならなかったが……とりあえずその事は考えないことにした。
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