童貞スーサイズ
第三章 「(ディス・イズ・ノット・ア)ラヴ・ソング」
■第19 話 ■ ビコーズ・アイ・ラブ・ユー
学校にはちゃんと通い続けていた。
朝、目を覚まして、母と姉と朝食のテーブルを共にし、学校へ出かける。
わずかばかりの友人たちともちゃんと談笑できたし、ときには自分から冗談を言うこともあった。
まわりから見ればあの夜を経てからも、芳雄には何ら変わったことなどないように見えただろう。
それは芳雄が意識してそう振舞っていたからだ。
しかし自分の変わり様は芳雄自身がいちばんよく理解している。
心はまるで死んだようで、以前のように確かにものを感じたり、心から笑ったり、悲しみや恐怖を感じたりすることもなくなった。
芳雄は中学校の校舎裏にある大きな桜の木の下に腰を下ろしていた。
そこは芳雄が最近になって見つけた、ひとりきりになれる貴重な場所だ。
ドウ子から渡された型遅れのオレンジ色の携帯を手に、芳雄は自分の置かれている状況に思いを巡らせていた。
思えば1年前、父の葬儀の席で工藤と名乗る男にあのUSBメモリを手渡されてから、芳雄はひたすらその謎の答えと、動画の少女……ドウ子の影を求めて一 直線に歩んできた。そして特にここ数週間は……恐らく他人の一億倍も風変わりな経験をし、危険な目にも遭い、ようやくあの夜に辿り着いた。
ほんの数週間で、10も20も歳を取ってしまったように思える。
しかしその結果得たのは、凄絶な辱めと、その様を克明にとらえた画像……そしてこのオレンジ色の携帯だけだ。
一体、どれだけ謎の真相に近づいた?
謎など、ひとつも解けてはいない。
それどころかますます謎は増え……今では自分がその謎の一部になってしまった。
ドウ子は一体、これから自分に何をさせるつもりなのだろうか?
いや、というか……それはすべてドウ子自身の意思なのか?
あの大西という女の意思?
それとも大柳という男の意思?
いやいや、ドウ子も大西も大柳も、自分と同じ謎の一部に過ぎない。
ただの駒だ。
とすれば、その後ろで糸を引いているのは誰なのか。
どうすべきなのだろうか……?
このまま、流れに身を任せているべきなのだろうか。
今はただ、こうやって自動人形のように日々を死んだ心で過ごしながら、このオレンジ色の携帯が鳴り出すのを待つべきなのだろうか……?
いや、違う。
待つ“べき”なのではなく、待つ“しか”ないのだ。
芳雄は携帯を握りしめたまま……自分の無力さを虚ろな心で実感していた。
「小林くん?」
不意に名前を呼ばれ、我に返る。
顔を上げると、ショートカットの痩せた女生徒が立っていた。背格好が自分とよく似ている、と芳雄は思った。
長い前髪越しにむくれたような顔。ちょっと突き出した唇。スリムな首筋。髪の長さも自分と似ている。
……その少女は芳雄の方を見ている。
よくよく彼女の顔を見て、記憶の牽引を探る……そうだ、同じクラスの太田知恵だ。
“太田知恵”の名前を思い出すのに、きっかり30秒ほど掛かった。
もともと、同級生の女子にはあまり興味がない上に、太田はその中でも得に目立たない少女だった。
これまで太田が芳雄の意識の中に入ってくることはなかった。
多分、クラス換えをして2ヶ月もすれば、その存在すら忘れてしまうだろう。
これまで直接話をしたたことがないどころか、太田が他のクラスメイトと話をしているところすら見たことがない。
名前を思い出すために芳雄がじっと見ていたせいか、太田はきまりわるそうに意味なくローファーの踵で地面をに弧を掻いている。
「ああ?………ああ」
芳雄はようやく、痴呆老人のような返事をした。
「……そこ、どいてくれる?」
太田が地面を踵で掻きながら言った。
「え? ……何だって?」
「……そこ、あたしの場所なんだ」
ほとんど聞き取れないくらいの声だった。
「きみの場所?」
「……うん、小林君、最近、休み時間は……ずっとそこに居るじゃん。困るんだよね。そこ、ほんとはあたしの場所だから」
「……なにそれ?」
「…………」
太田は答えず、地面をつま先で掻き続けた。一度も芳雄に目を合わそうとしない。
「邪魔だったらどっかに行くけど……」
そう言って芳雄が腰を上げようとする。
「待って!」
と、いきなり太田が掌を突き出し、芳雄の動きを制する。
「えっ……えっと……」
「なんでそこがあたしの場所なのか…………知りたくない?」
芳雄はこのまま立ち上がるのがいいのかまた座り直すのがいいのか判らずに、中腰の姿勢のまま太田を見つめた。
太田は相変わらず、顔を上げようとしない。そのせいで、前髪がほとんど顔を画している。
どこまでも太田の挙動は奇妙だった。
芳雄と目を合わそうとせず、ひたすら地面を掻きながら、ぶつぶつと聞き取れないくらいの声で何かをつぶやき続けている。
一体何なんだ?……芳雄は取りあえず、また座り直した。
「その携帯……ちょっといいね」
太田が顔を背けながら、芳雄に指を突き出す。会話に全く脈絡がない。
「……これ?……それはどうでもいいけど……何か用があるわけ?」
芳雄は慌てて手に持っていた携帯をシャツの胸ポケットに隠した。
一体太田が何を言いたいのかはわからないが、とにかくこの携帯は他人の目に晒していてはいけないような気がしたのだ
「そこは、あたしの場所なんだよね。あたしがこの学校に入学してから……」
「……そんじゃぼく、どっかに行くよ。じゃあね」
「待って!! ……なんでそうなのかは、聞かないの?」
気づけば、太田の耳たぶが真っ赤になっている。
「……別にそんなの……興味ないけど」
「……あたしのお姉さんがね……」
太田が俯いたまま喋り始める。
「え?」
「……だから、あたしの8つ年上だったお姉さんがね………」
太田は聞かれもしない話を勝手に語り始めた。別に芳雄が聞いたわけではないので、聞き続ける必要もないだろう。
「じゃあ僕、行くから……」
芳雄はそのまま立ち上がり、太田の腋をすり抜けてその場を離れようとした。
何だかわけがわからないが、わけのわからないことなら、もう充分間に合っている。
これ以上わけのわからないことには、できるだけ関わりたくない。
「待って!」
突然、芳雄の肩を太田が背後から掴んだ。異様に握力が強い。
「……な、何だよ」
芳雄が振り向くと、長い前髪の隙間から太田がものすごい目つきで睨んでいた。
少し三白眼ぎみの目には凄みがある。
太田の顔は真っ赤だった……その頬が、額が、鼻の頭が、すべてが燃えるように赤い。
血が浮き出そうなほど、少し厚めの下唇を噛み締めている。
その迫力は芳雄を怯えさせるのに充分だった。
これは……大人しく話を聞いておかないとなんだかやばいことになりそうな気がする。
芳雄は思わず唾を飲み込むと、覚悟を決めて太田に向き直った。
「……わ、わかった。聞くよ」
「誰にも言っちゃダメだよ」
太田が芳雄を睨みながら、唇をきつく一文字に結ぶ。
芳雄よしも少し濃い目の眉毛が、激しくつり上がっている。
「う……うん」
“自分が勝手に喋ってるんじゃねえか”という言葉を飲み込みながら芳雄は頷いた。
「あたしの8歳年上のお姉ちゃんもね、この学校の生徒だったの……でも、すっごくみんなからいじめられてね。何回担任の先生に言ったって、全然ムダだっ た。しまいにはお姉ちゃん、家でもおかしな振る舞いをするようになって……自分で自分の髪の毛をむしるようになっちゃって……頭にいくつもハゲができ ちゃったの。何度もお母さんがやめさせようとしたんだけど……お姉ちゃんは悪くなる一方だった。しまいには、学校にも全然行かないようになってね。部屋に 閉じこもるようになったの……なんか、お姉ちゃんが部屋の中で一人で笑ってるのが聞こえてくるし……誰もいないはずなのにお姉ちゃん、部屋の中で誰かと話 しをしてることもあったなあ……そんなこんなで、あたしの両親も、ついにお姉ちゃんをキ チガイ病院に入院させることにしたの……」
「は……はあ」
どう相槌を打っていいかわからない話だった。
「……でも、お姉ちゃん、お父さんとお母さんの企みに気づいたのか、家を飛び出してね、行方不明になっちゃったの……当然、警察にも届けたけど、お姉ちゃ んは見つからなかった。家から飛び出したときはパジャマ姿だったし、それに裸足だったんだけどね……でも3日ほどして、お姉ちゃんから電話があったの。
『もしもし、どこに居るの??』お母さんが電話に出て、お姉ちゃんに聞いたのね。するとお姉ちゃん、ヘラヘラ笑いながら、
『がああああああああっっっっこおおおおおおおおおおう』って答えた の。
『もしもし、学校? 学校のどこに居るの?』ってお母さんが聞いたら、
『こおおおおうしゃのうらのさああああくらのきのしただよおおおおお おおおおう』って答えたの。
『そこで、何してるの?』お母さん聞いたの。すると……
『これから首吊るとこだよおおおおおおおおおおおお……』って……… その直後、電話口から声が聞こえてきたらしいの………
『ぐ、ぐ、ぐ、ぐえええええええええええええええ……』って押しつぶ したような声が……お母さん、それ聞いたせいで、一晩で髪が真っ白になって………二度と電話で人と話せなくなっちゃったの」
「で……」芳雄は慎重に言葉を選んでから、咳払いしてから、言葉を続けた。「……その、きみのお姉さんが首を吊った木ってのが………」
「そう、今、小林君が座ってた……あの木よ」
そう言って太田は、背後の桜の木を指さす。
「だから、あたしはこの中学に入学して以来、暇さえあればあの木の下に座っては……お姉ちゃんのことを思い出すの………」
「……じゃあ、もう来ないようにするね」
どうやらオチがついたらしいので、芳雄はいち早くその場から逃れようと足を踏み出した。
が、その前に太田が通せんぼをするように立ちふさがる。
「……待ってよ……どうなのよ」
話しているうちはだんだん赤みを失っていった太田の頬が、また明かりでも灯ったようにぱあっと赤くなる。
「ど、どうって……なにが?」
「どう思うのよ、あたしの話?」
「……どうって……」芳雄は太田から目を逸らせながら言った「……嘘だよ、そんなの」
「……うそ!?」太田が声を裏返して叫ぶ、「な……なんで???」
「だって僕の姉貴も……この学校の卒業生で、君のお姉ちゃんと同じ8つ年上なんだ。これまでに姉貴からそんな話、聞いたことないよ」
と、途端に太田の顔色は、一気に青くなった。
まったく、赤くなったり青くなったり忙しい。
しかし芳雄は何故か、太田のそんな反応に……親しみのようなものを覚えた。
どうも彼女は思っていることや感じたことのを全てを、顔や態度に明確に表してしまう性質らしい。
ここのところ、何を考えているのかわからない奴らとばかりつき合い過ぎたからだろうか。
自分自身の心が、死んだように静まりかえっていたからだろうか。
そんな太田の反応が、妙に新鮮で愛しく思えた。
「全部……ウソだろ?」
芳雄が言うと、太田は目を逸らしながら、黙って素直に頷いた。
「っていうか……きみ、ほんとうはお姉ちゃんなんか……居ないんでしょ?」
また太田は素直に頷く。
「……なんで、そんなウソをわざわざ聞かせたわけ?」
太田は黙っている……地面を踵で掻きながら。またその頬が、ますます赤く染まる。
彼女が喋り出すまで、芳雄は根気強く待った。
5分ほどお互いそうしていただろうか……もうすぐ、昼休みの終了5分前を知らせる予鈴が鳴る。
根負けしたのは、太田のほうだった。
「なぜって……」一呼吸置いて、ボソっと呟く。「あなたが好きなの」
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