報道の表現についてひとこと
〜「死なせた」とか「などど」とか…〜

妄想:西田三郎

■2004/03/26 (金) シリーズ・報道の表現:第一回「死なせた」(全四回)

 最近のニュースなどを見ておりまして非常に気になりますのは、児童虐待死事件の報道などで、
 
 「頭を毎日のように拳で200回以上殴って死なせた
 「熱湯に頭から5分間つけて死なせた
 「3階の窓から放り出して死なせた
 「半年食事を与えないで死なせた

 といった感じて明らかに「殺した」ことは間違いない事件におきましても、この「死なせた」というアイマイな表現が使用されていることですね。

 何なんでしょうか?この「死なせた」というのは?
 
 アレですかね、「いやまさか死ぬとは思いませんでしたが死んじゃいました」というカンジの明確な殺意の不在を表しているということでしょうか?いえ、最近の虐待死事件の例などを見ておりますと、その残虐性はマッドマックス」の暴走族集団さえも裸足で逃げ出すほど辛酸を極めるものですので、殺意の不在ということは有り得ないでしょう。

 わたくし的にはこの「死なせた」表現の蔓延は、世間の「ヒトゴロシ」に対する感覚が鈍ってきていることの表れではないか、と思うのですね。

 もう連日連日、テレビをつけたら昨日ビックリした殺人事件が今日はヌルく感じるくらい、犯罪は凶悪化の一途を辿っております。こんな状況下ですので人々が殺人という事件の陰惨さ残忍さに対して感覚を麻痺させていくのも無理からぬことでしょう。

 そのうち、
 「ナチス・ドイツは大戦中600万のユダヤ人を死なせた」とか、
 「日本軍は南京で30万人の中国人を死なせた」なんて言説が教科書に載る日も近いでしょう。
 
 すごい世の中になったものですねえ。




■2004/03/27 (土) シリーズ・報道の表現:第二回「〜などと供述」

「西田容疑者は犯行の動機について、昨年末に失業しサラ金に600万の借金があった、生活に困ってやった、と供述…
「西田容疑者は犯行の動機について、隣の犬に命令されてやった。これは政治だ。おれは街の見張りをしているんだ、などと供述…

 ご覧のように報道表現におきます「〜と供述」と「〜などと供述」の間には正常と異常を隔てる大いなる壁があるわけですね。

 「〜などと」と言う表現には、この容疑者はつまりこれ以外にも散々戯けたことをほざいています、という心情が織りこまれており、つまりその供述ははっきり言って聞くに値しない内容であること、まともに取り合っていてもワケの判らない内容であることを示しているのですね。

 しかしここで思いますのは、そんなに初期段階の報道で、容疑者の頭のイカレ具合を提示していいものか、ということですね。刑法39条では、とにかくキティガイの犯行は罪に問えないことになっておりますので、鬼畜な所業でパクられて、罰から逃れるために狂気を装う犯罪者も現に存在するわけです。

 しかしよくよく問い詰めればそうした犯罪者にも「あまりにもモテないからやった」とか「チンコが小さいのを馬鹿にされた」とか、我々にも理解し得る犯行動機というものがあるかも知れない。

 ですので、いきなり犯罪者の供述を「〜などと」で切り捨て、我々の理解の範疇外に追い出してしまうのは、怠惰かつ危険な気もするのです。






■2004/03/28 (日) 報道の表現:第三回「高級車を乗り回し」

 皆さん、金持ちが憎いですか?わたしはとても憎いです
 ワタシなんかはほんとうに、高級住宅街の中にある広い庭付きの3階建て住宅の前などを通ったときに、チラッと庭にキレイに洗われたゴールデンレトリバーが昼寝しているのなどを見かけ、さらに家の中からはソチラのおたくのお嬢さんが弾いているのであろうショパンのピアノの音なんぞ聞こえてきたその日にゃあ、

畜生、一体どんな悪いことをしてこんな暮らしをしていやがる

 というようなドス黒い感情がウズを描くことがしょっちゅうなんですが、皆さんは如何でしょうか

 しかし実際に悪いことをしてお金儲けをしていた人がパクられた時など、常に報道はその下手人の派手な暮らしっぷりを以下のような表現で表します。

「付近住民の話によりますと、西田容疑者は普段より高級車を乗り回し、高級クラブを何軒も梯子するなどその暮らしぶりは派手で・・・」

 なんだか、「乗り回す」といいますと、高級な車を見せびらかせたくて用もないのに付近を車でグルグル回っていたように思えてしまいますが、おそらく周りの人にはそのように見えたのでしょう
 恐らくこの手の人は、パクられる以前に周りの人からかなり妬まれていたに違いありません。

 「楽してかね儲けても絶対ロクなことあらへんよ
 「いまのうちに贅沢しとったらええんや。いつかエライ目に遭うから
 「ほんま悪銭身につかず、ちゅう話やで」など、

 あたかもその人が贅沢をしていること自体が罪悪であるかのような、付近住民の高濃度の妬みから出た呪いの言葉が、ワタシには聞こえてきます。その当の本人がパクられたあかつきには、付近住民が大いに溜飲を下げるであろうことは想像に難くない。しかし問題は、結局はマスコミ報道も、そうした付近住民の嫉みと同じレベルに立っていることです。

 考えてみれば高級車に乗ることも、高級クラブを梯子することもほんとうは罪でもなんでもないのです。
 
 日本は戦後60年を迎えようというのに、いまだ「清貧は美徳」なのだなあ、と今日はきれいにまとまりました




■2004/03/29 (月) 報道の表現:第四回「『わいせつ』と『みだら』」

 別コーナー(掲示板)で散々性犯罪のことに関しては書いているのですが、性犯罪報道におきます「わいせつな行為」と「みだらな行為」の違いとはいったい何なのでしょうか?

 挿入に至る行為が「みだらな行為」で、本番ナシが「わいせつな行為」なのか。はたまたその逆なのか。

 だいたいからして法律用語にも、「強制猥褻」というような言葉はあっても「わいせつ罪」とか「みだら行為罪」という罪はないのですね。といいますのも、強制でない限り、男女間、あるいは男男間、もしくは女女間、はたまた男女男間におきまして繰り広げられたその行為がいかにアグレッシブドラスティックにわいせつであっても、それは罪に問われるスジアイのことではない。

 いえ、そのわいせつさのレベルではなく、そのわいせつ行為が金品の対価として行われたか否か、またはそのわいせつ行為の対象が成人に達していたか否かが罪に問われるべきところなのではあります。

 それはそれで「売春」もしくは「買春」、さらに「児童福祉法」などに抵触するところの非を問われているのであって、「わいせつさ」や「みだらさ」を問われているのではない。

 報道の表現の問題点は、こうした言葉のひとり歩きにより、あたかも「わいせつなこと」さらに「みだらなことそのものが罪悪であるかのような印象を世間に与えてしまうところであります。要するに、

 「西田容疑者は当時16歳だった生徒にわいせつな行為の見返りとして2000円を支払った疑い

 という報道の常套である表現は、この西田容疑者が性行為の見返りとして2000円払ったことの非を問われているはずのところを、あたかもわいせつな行為をしたこと自体の非を問うているように思わせてしまう。

 これは事実の湾曲であり国民のモラルの危機であります。
 わいせつは悪くない。むしろ善です。
 
 わいせつを否定し、排除する文化こそ野蛮で邪悪なのです

<おわり>

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