フィクションと
〜どくいり きけん よんだら ぬで〜

妄想:西田三郎

■2004/07/28 (水) フィクションと犯罪 〜その1〜

 1981年、 レーガン元大統領を暗殺しようとして殺り損なった役立たずの穀潰し、ジョン・ヒンクリーは、映画「タクシー・ドライバー」の大ファンであり、わけても映画の中で少女娼婦を演じたジョディ・フォスターの虜でした。

 「ジョディ・フォスターに対しての自分の愛を証明するつもりでやった

 との素っ頓狂な供述をしたヒンクリーでしたが、そんな「100万本のバラ」みたいな訳の分からない愛情表現をされてもジョディも困るでしょうし、だいたいからしてジョディはズーレですので本当に彼のやったことは無意味な人騒がせであったに過ぎません。

 この件に関してインタビューされたロバート・デニーロ
「いつの時代にも自分をスーパーマンだと信じ、首にバスタオルの端を巻き付けてビルから飛び降りるバカは居るものだ」
と発言しました。

 事実、多くの犯罪や反社会的事象の発生には、何の理由もないことが多いのです。
ただ、世間はそんなことをとても認められません

 レーガンを撃ったヒンクリーにしても、彼自身にレーガンを撃たざるを得ない何らかの絶対的理由があった訳ではありません。しかし「ただ何となく」で大統領を撃ったとなっては世間が許しませんので、「タクシードライバー」が理由として挙げるよりほかなかった。つまりヒンクリーには「ただ何となく目立ちたいから大統領を撃った」という本心を述べ、何にでも理由を求める世間一般のモラルと対峙する度量が無かった。

 世間はそうした犯罪者たちの凶行に理解しやすい理由を求めます。

 そのように、何にでも「理由」を求めざるを得ない世間に対して、「理由なんてねえよ」と見栄を切れない気弱で根性ナシの犯罪者が、社会に迎合する形で出す言い訳、それが「タクシー・ドライバー」やら「バトルロワイヤル」やらの固有名詞なのです

余談:ぜんぜん関係ないですが、この“タクシー・ドライバー症候群”とでも呼ぶべきものをそのまま映画にした「あばよ、デニーロ(原題:“Are You talkinng to me?”)という映画もあります。



<つづく>



■2004/07/29 (木) フィクションと犯罪 〜その2〜

 神戸連続児童殺傷事件の犯人、酒鬼薔薇君(現21歳:童貞)もそうした理由無き殺人者のひとりです。

 彼は大変な読書家だったらしく、事件前に書いた詩(?)にも「魔物と戦う者は自らも魔物にならぬよう気をつけねばならない」とニーチェをもじった文章があり、さらに「人生の半ばにして、道に迷った私は、気がつけば暗い森の中にいた」とダンテの引用をしています。

 しかし、彼が実際にニーチェやダンテを読んでいたかというと怪しいところでして、先のニーチェの言葉は元FBI心理捜査官であるロバート・レスラーの「FBI心理捜査官」(どこのブックオフにもあります)に引用されており、さらにダンテの方は高村薫の「照柿」に引用されてますので、マー彼はせいぜい、その辺の偏ったサブカル千擦り少年だったと見るのが妥当でしょう。

 余談:その文章の中には、「プレデター2」の引用もあり、つくづく彼とわたくしの映画の趣味は似ています。ただ、「夜空の星を見るたびにおれを思い出せ」と「マッドマックス」の冒頭に登場するイカれた暴走族、ナイトライダーのセリフからの引用がありますが、それがさらにAC/DCの曲「ロッカー」からの引用であることはさすがの彼も知りますまい。(←何を競っているのだ

 ちなみに衝撃的だった彼の警察への挑戦状は、赤インクで定規を使って書かれており、これは当時「サンデー毎日」で連載中でした、同じく高村薫の「レディ・ジョーカー」からのイタダキです。

 しかし世間が騒ぐのは彼がホラー映画に傾倒していたということであって、このようなわりとフツーの読書傾向に関してはまったく注目しない。酒鬼薔薇君が警察に対して、ナゼあれほどまでに挑発的なアクションを起こしたのかといえば、まあそれは70年代のサンフランシスコで起きた未解決連続殺人事件「ゾディアック事件」からの影響も見られるのですが、それよりもまず「レディ・ジョーカー」に出てくる大マジメで洒落っけも面白みもない「かい人21面相」のような脅迫者たちに影響されたであろうことは想像に難くないのに、誰もそこは指摘しない

 直木賞作家の小説は問題にせずに、彼がホラー映画「ハロウィン」シリーズの大ファンだった(なかなか趣味がいいと思います)事だけを声高に叫ぶ世間は明らかに矛盾しており、こうした特異な事象に対してムリヤリにでも理解しやすい普遍性を求めてしまうその悪癖が露呈しているのですね。

(補足ですが、本当に彼が「ハロウィン」のマイケル・マイヤーズのファンだったなら、決して医療少年院から退院させるべきではないでしょう。必ずまたやりますので

補足の補足:2004年11月7日段階では、まだやってないようです。しかし彼が外の世界でずっと童貞のままなのは非常に危うい気がします。

<つづく>




■2004/07/30 (金) フィクションと犯罪(番外編)

 ちょっと話はズレますが、旬なネタ(当時)ですのでインターネットに関して一言。
 マー最近では長崎の少女殺人犯・ネバダちゃんの件で、インターネットの有害性が叫ばれておりますがアレはすなわち、たまたま事件の原因になったのがネットでの書き込みであった(とされている)だけであり、加害者と被害者が顔見知りであったところ、お互いよく知り合った身近な存在であったという点が大問題なのですね。

 かくいうわたくしもインターネットの掲示板での醜い叩き合いなどを見るのが大好きでして、そういう小競り合いを高い位置から見下ろし「あー小せえ小せえ」とほくそ笑むのが娯楽なのですが、インターネットの掲示板での叩き合いというのはつまり、叩き合っている者同志がお互いを何者なのか知らない、知ろうとしない、という最低限のルールがあるからこそ面白いのです。

 天下の大新聞やテレビなどの各メディアはインターネットの匿名性こそが問題であると(いまだに)述べますが、これは大きな間違いです。匿名性があることがすなわちインターネットの醍醐味であり、他のメディアにはない利点なのであります。

 なぜならネットの世界ではお互いが素性を名乗らない限り、大学教授と小学生、引きこもりと国会議員、歌舞伎町のオカマと歌舞伎役者が、全くのハンデなしの状態で同じリングで意見を戦わせることができる。時には相手をボロクソにけなして自殺に追い込んでやろうかと思うときもあるでしょう。

 しかし、それを小学校の顔見知り同士でやっちゃいけません
 学校も教育にインターネットを取り入れるのであれば、掲示板での効果的な叩き方と、荒らしの放置のしかた、和やかムードの掲示板での馴れ合い方くらいはしっかり教えるべきでしょう。

 ナゼならいまさら子供達からパソコンを取り上げるより、そっちの方がラクだからです。

 …ちなみにネバダちゃんは「バトルロワイヤル」の大ファンだったと言います。
 あまりにもマンマですね。狙ってるというより他ありません。
 わたしが戦慄するのは、こんな子どもですら、世間がその暴力衝動の理由を知りたがる、という事を知っており、さらにそれに対してはこのような適当な返答をしておけばいいのだ、ということを自覚していることです。
 はっきり言って、世間はこの12歳の少女に完全にナメられていると言って過言ではない。

<つづく>




■2004/08/05 (木) フィクションと犯罪 〜最終回〜

 フィクションと犯罪に関するヨタ話の最終回です。

 多くの「理由無き犯罪」にはホントウに理由がないのであって、そこに理由を求めること自体が誤りであるというのがわたくしの持論です。何故、トビー・フーパー監督の「悪魔のいけにえ」やスタンリー・キューブリックの「時計じかけのオレンジ」、果ては松村克弥監督の「オールナイトロング」にいたるフィクションが我々に戦慄をもたらすのかといいますと、各映画に登場する加害者には全くそのような鬼畜の所業を行う理由というものが見られないからです。

 何の理由もなしに暴力やレイプや殺人を行う人間が現実に社会には存在し、我々はそうした存在から身を守る術を持ち得ない。そうした「現実」を目の当たりにさせるからこそ、我々はそういう映画に恐怖を感じつつも、魅せられれしまうのではないかと思います。

 陰惨な刑事事件を犯した犯人が、「バトルロワイヤル」や「ハロウィン」、さらにまずないと思いますが「ドリラー・キラー」などの影響を口走った際、我々はそれを鵜呑みにしてはなりません。恐らくそうした犯人たちが凶行に駆り立てられた「理由」は、驚くほど希薄で、呆れるほど陳な代物であり、法の範疇に収まりうる精神生活を送っている我々には、到底、理解しがたいものでしょう。

 犯人に共感し、その理由を自分に当てはめて考えてみるというのは愚かなことなのです。だいたい池田小学校児童殺傷事件の宅間守が逮捕後に宣った「エリートの子供達への憎悪」というのは大変分かり易く、8割が負け組であるこの一般社会に於いてもすんなりと受け入れられ易い説明でした。しかし、ここで「なるほど」と膝を打っていいのでしょうか?

 
我々パンピーが普段感じている「勝ち組」社会への嫉妬と、守ちゃんが子どもを無差別に殺傷した理由には 天と地ほどの隔たりがあるのです。断じて言えますが、宅間を凶行に駆り立てたものは、そのように筋の通ったものではない。

 
宅間はあの凶行に至るまでは婦女暴行事件を繰り返していた、セックス中毒のサディストであり、彼に殺害された池田小学校の子どもは8名中7名までが女子児童でした。宅間を犯罪に駆り立てたものは、女性に対する歪んだ性的欲求と暴力衝動(レイプ犯が被害者に対して抱く感情に近いもの)であったと推測することが出来ます。しかし、彼はそれを自覚はしていましたが、そのことを正直に明かすことがとても恥ずかしかった。そして、それで世間が納得するとはとても思えなかった。

 その結果、出てきたのが「エリートへの憎悪」という解りやすい言説です。


 犯罪を犯す人々と常識に生きる我々を隔てている、明確な線引きがあるということを、我々はもっと真摯に理解せねばなりません。我々負け組は、エリートである一握りの人々へのルサンチマンを誰もが抱いていますが、それによってエリートの子供達を大量殺戮しようとは思いません。よって、彼ら犯罪者と我々は、明確な線で区切られていると言える。

 彼らが常識の通用しない、制限されない欲望の世界に住んでおり、我々は常識に日々を過ごしつつ欲望を飼い慣らして健全に生きている。我々のように常識に日々を送るもの達は、常に彼らに補食される側であり、いつ自分が彼らのが被害者になっても不思議ではないのです。

 それを自覚していれば、フィクションが犯罪に影響を与えているのでフィクションの方を排斥すべきだ、なんていう暢気な言説は出てこないと思うのですが如何でしょうか?
 おしまい。

<おわり>

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